The Camp of Developmental Disorder // Day 1 【暫定版】
国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。
そうは言ってもいまは夏の真っ盛りで、雪はない。夜の底は白くならない。時刻はもう明け方だった。地元を出発したのは夜中過ぎ。それでもう間もなく目的地に着いてしまう。早いものだ。高速道路は空いていて、車のスピードは快調。雲一つ無いから、今朝も良く晴れることだろう。
川端康成の『雪国』とは随分とイメージが違う、真夏の雪国だった。薄幸の芸者との行きずりのロマンスなど、きっと生まれないだろう。
もとより、車内の男二人は新感覚派の情緒に酔うような人間でもなかった。
「諸津君、ちゃんと起きてるよね」
「起きてなかったら困るだろ。ただでさえ連絡取り辛いのに」
運転席の榎木が煙草を咥え、シガーソケットで火を付けた。助手席の古阪はスマホを見ながら窓を少し開け、流れてくる煙を外へ逃がした。
それから間もなく車はインターを降り、待ち合わせ場所である駅前ショッピングセンターの駐車場に止まった。早朝なので辺りに人気は無く、他に車も停まっていない。
「携帯解約したって、いまどき凄い話だよな」
古阪はスマホからスカイプを立ち上げ「もう着いてるぞ」と諸津のPC宛てにメッセージを書き込む。
「やっぱ寝てたりして」
「あり得るよな、あいつは」
憂慮に反し、暫くするとひょっこり諸津が現れた。
「徹夜でゲームして、ずっと起きてた」
諸津は二人の顔を見るなり、妙に誇らしげにそう言った。それは威張ることなのか、とツッコミを入れながら、古阪は約一年ぶりに会う友人の姿をまじまじ見つめた。
相変わらず体毛が濃い。顔が土気色になっていて、目ばかりがいやにギラギラしていた。もともとそういう顔ではあったが、いかにも不健康そうに見えた。以前より更に痩せているような気もした。骨と皮ばかりではないか。
「うん、不気味。なんかもうゾンビみたい。ニートオブザデッド?」
「相変わらず五月蠅いな、お前は」
いきなり遠慮のない言葉を浴びせられ、諸津は少し気を悪くしたようだが、言い返す口調自体はのんびりしたものだった。
諸津は学生時代から一貫して社会不適合そのものであり、その風貌と言動は独特なものだった。仲間内でもよく変人扱いされ、からかわれることも多かった。けれど実際の性格は至って朗らかで、意外なほどに心優しい。だから、からかう方も本気で馬鹿にしているわけではなかった。
「よし、そろそろ行こう」
二人のやりとりに曖昧な笑みを浮かべていた榎木が言った。夜通し運転した疲れが多少は窺えるが、余力はまだ充分にあるようだった。
榎木は酒屋の配送で働いていて、体力には自信がある方だった。
諸津の地元でのキャンプが、毎年の恒例行事のようになっていた。
基本的にはゴールデンウィークとお盆の年二回である。そのときどきでメンバーの増減はあったが、中心メンバーはこの三人だった。
そして今回は、その三人しか集まらなかったというわけだ。男三人だけで二泊三日のキャンプ生活というのも、ちょっと侘しいものがある。
しかしそれは無理もない話だ。
キャンプとは言っても、つまりはただ野外で酒を飲んで寝るだけという生産性もなにもない、ひたすら怠惰でむさ苦しい余暇の過ごし方なわけで、三十路も間近になってまでそれに参加するという人間が減っていくのは当然の帰結だろう。
実際のところ、古阪はそう思っていた。
それでも半ば義務のようにこうしてキャンプを決行するのは、自分たちがどうしようもなく駄目な人間であることの証左のような気がしてならない。しかし、だからこそ逆に意地になり、まるで世間の「年齢相応」などという圧力に抗うように、毎年また時期がやって来れば「キャンプどうする」と言い出すのだ。その辺りに関しては、口には出さないが、榎木も同じような気持ちなのかもしれない。
そして今年もまた夏が来て、長いトンネルを抜けた雪のない雪国で、三人は集ったのだ。
「ラピュタのシータって、妙にエロくない? 別におれ、ロリコンじゃないけど」
「ナウシカは脇毛剃ってないよね、きっと」
「ナウシカは絶対避妊しないはず。したら駄目だろ」
「『付けてよ』なんて言われたら興ざめする」
「いままでのお前の主張はなんだったのかと」
「なあっ。榎木君もそう思うよね」
古阪と諸津は馬鹿らしい会話で盛り上がり、運転席の榎木に話を振る。榎木は「知らないよ、そんなの」と微苦笑する。
それから榎木と諸津がマニアックなプログレッシブバンドの話を始める。
かつて幾つかのバンドを組んでベースやギターを担当していた榎木と、かつて東京で貧乏暮らしをしていた頃に局所的なこだわりから数万円するヘッドフォンを購入、ひとしきり自慢、しかしそれを怠惰な生活態度によって汚泥と化した下宿に埋もれさせ、結局は耳当てのスポンジ部分を腐食させ台無しにした諸津、この二人の音楽の趣味は不思議と合致した。
「あそこのさ、ずっちゃ、ずっちゃ、だんつくだんつく、だんっだんっってとこが、凄くあれ……」
「あ、あそこでしょ、あの、だっ、だっ、じゃっ、じゃっ、ってとこみたいな」
「そうそう。あとは……」
そのジャンルに疎い古阪には、とてもついていけない盛り上がりだった。まあ、ついて行けなくとも別に困らないから、ぼんやりと窓の外を眺めた。
開放感溢れる田園風景のなかの一本道を、車は走っていく。
空が青く広く、連なる山々の頂の辺りは白い雪がまだ残り、そのコントラストが美しかった。
……こんな美しい風景のなか育ったのに、何故こいつはこんな人間になったのだろう。
それを諸津に問うたところで「知らね」と素っ気ない返事がくるだけだろう、と古阪は予想していたら本当にそうだった。
スーパーで一日分の買い出しを早々に済ませ、三人を乗せた車はキャンプ地に向かった。
テントを設営し寝床を確保、それからタープを立て炊事場兼宴会場を設えた。
それを一気に済ませてしまえば、あとはもう飲み始める。他にすることはなかった。
バーベキューコンロに炭をおこし、網の上で肉を焼く。地場産の豚肉は癖もなく、ただ普通に焼いただけで充分に美味かった。ビールが進む。
あとはキュウリやミョウガなどをざく切りにし、味噌を酢醤油で溶いて辛子を混ぜたものをつけ、いい加減に口に放り込む。ツマミなどは飲みながら作ればいい。ビールもいいが、日本酒も美味い。
作る人間も食べる人間も既に酔っているからかもしれなかったが、一気呵成に作る野菜炒めなども不思議に美味く感じた。やはり米所の日本酒も最高なのだが、またビールに戻ってもいいし、そろそろウィスキーでもいいかもしれない。ワインだって買ってある。
とにかく大切なのは酒だった。ただ酒を飲むことだ。飲酒第一主義、というのがこのキャンプの唯一の方針だった。
そういうわけだから、米を炊き、その日のメインディッシュが出来上がる頃にはいつもベロベロになっていた。
それでも一応はカレーや豚汁が、いつしかちゃんとその場に出現するのだから、つまり野外料理は気合いとアルコールと勢いだけでなんとかなるということだ。
作業の分担は、毎回ほぼ決まっていた。古阪は調理全般、榎木は炭と酒の管理が担当だった。
そして諸津。そのポジションはなんとも微妙なものだった。
地元出身だけあって、諸津は余所の人間にとっては珍しい食材や酒、その時期に美味いものなどをよく心得ていた。食全般に対してもこだわりが強い。だから買い出しのときには、その意見が大いに尊重された。まさに現地人ガイドだ。
だが、テントの設営や炊事などの雑多な作業においてはまるで役に立たなかった。まるでゾンビだった。
基本的に自分からは動こうとしない。一方で突然うめき声を上げたかと思うとあらぬ方角に消え去っていくなど、奇行にはよく走った。そんな調子なので、皿洗いなどの雑用仕事を命じられることが多い。しかし、なかなか水場から帰ってこない。訝しいんで様子を見に行けば、洗い物を見事なまでに途中で放り投げ、ただ突っ立って空を見上げて惚けている。本当にゾンビなんじゃないのかこいつは。仕方ないから監視をつけたところでまあ結局は動く死体並の作業速度に苛立った他の人間がやることになった。
下働きにしても、これは失格だ。信じられないくらいにキャンプオブザデッドだった。
ところが、幾らその場で「どうしようもない奴だ、お前は」と責め立ようと、結局は誰もがそんな諸津を許してしまう。それどころか、気がつけばそんな駄目さ加減が病みつきになっていく。
こと榎木に関しては、ほとんど萌えていると言ってもいい。たまの連休に自分の車を出し、夜通しの運転を引き受けているのも、諸津という人間に対する興味と感心があればこそだろう。
つまり諸津には絶大なる愛嬌があった。だから、その役割は言わば「愛されゾンビ」。このキャンプにはもはや欠かせない存在になっていた。
山間のキャンプ場、オレンジのフィルターが掛かっていた周囲の木々の緑もやがて濃い闇に溶け込んで薄れ、時折吹く風に葉を揺らさせるだけの存在になった。虫の声と焚き火がはぜる音がそれと交じり、穏やかなBGMを構成している。
要するに、もう日もすっかり暮れて、あたりは静かな夏の夜だ。
三人はそれぞれチェアに腰掛け、焚き火を囲んでいる。
その頃になって、ようやくこの日のメインメニューである鯨汁が出来上がった。この地域一帯の夏のスタミナ料理として親しまれている料理らしい。これは諸津の提案によるものだった。
まず鍋から漂う独特の匂いが食欲をそそった。過剰なまでにこってりしているが、不思議にあとを引く鯨の油がその匂いの元だった。
味付けは豚汁のように味噌仕立てだ。だが豚汁とはまた違う、独特のコクと旨味があった。具材は薄く切った鯨の表皮の脂身と、その油分をたっぷり吸ったナスやユウガオ(馬鹿でかいウリのような野菜)。それらが口腔内で蕩けていくようだが、舌にはやはり強烈なインパクトが残る。なるほど、これは癖になりそうな味だった。
古阪と榎木は「さすが!」と大袈裟なくらいに諸津を褒めそやした。二人は昼間からかなりハイペースで飲み続けていた。移動で寝ていないこともあって、大分酔いが回っている。
諸津は鯨汁は何杯も平らげたが、酒はそうでもなかった。自分のペースでゆっくり飲んでいる。普段から、さほどアルコールには執着しないほうだ。
いま諸津の関心は、目の前の焚き火にあった。頻繁に薪をくべては、その形を整えている。自分なりの理想の炎を追求しているようだった。
たしかに、火を見ていると、ただそれだけで飽きない。
なかにはすぐに飽きてしまう人間もいるだろうが、少なくともこの三人はそうではない。彼らのキャンプに焚き火は欠かせないものだった。
ようやく火床が定まり、炎は安定していた。もう大して手を入れなくとも、自然とよく燃えてくれる。だからゆっくりとそれを眺めていられた。
重ねて組まれた木と木の隙間から炎が生成され、それが大気の流れで常に形を変え続ける。先端の橙色がちろちろと動くのに見入っていると、あらゆるイメージが浮かんでは消え、その揺らぎと己の心の動きが重なっているような気がしてくる。
普段からよく喋る古阪はいつしか口数が減り、ぼんやりと考え事をしていた。
榎木は地酒がいたく気に入ったようで、しきりに関心してはまた杯を干す。
諸津はいまだ焚き火に夢中らしく、じっと炎を見つめている。黒目がちで大きなその瞳に、炎の揺らぎが映り込んでいた。やはり火は人を魅了して止まないのだろう。が、流石にちょっと退屈してきたのかもしれない。
「あはあ」
気の抜けた腐乱死体のようなうめき声を上げ、諸津は唐突に、ぽろん、と男性器を露出させた。
剥き出しのそれが、静かに燃える炎に照らし出された。
その形状はあくまでリアリズムで、そこに子供のような愛嬌はどこにもなかった。強烈な存在感をもって、そこに現れていた。その場にいるものは、決してそれを無視出来ない。
ところが、古阪と榎木の二人は特にリアクションもせず、無言のままだった。あまりの唐突さに言葉を失ったわけではない。こうした諸津の剥き出しはほぼ毎回のことで、いまさら言うことはなかったのだ。
そこまで酔っている様子でもないのに、諸津は出す。いや完全に素面でもよく出した。特に理由もなく出す。意味もなにもない。淡々と出す。リアクションを期待しているようでもなかった。ただ出す。それだけだ。だから出されたところで、いまさら何も思わない。ただ、出されたものはつい見てしまう。
そういうわけで、古阪と榎木はそれをただ黙って見つめ、それぞれ手元の酒をちびりと一口。それからやはり現前している無修正のそれのリアルになんとなく目がいってしまい、また一口酒を飲む。その繰り返しだった。
つまり結果として、二人は諸津のちんこを肴に酒を飲んでいた。火を見ようとしても、ついそれも一緒に見てしまう。また出している当人も何も言わず炎を見つめ、当たり前のような顔をして火に薪をくべたりする。
そんなシュールな時間がしばし流れた。
「そういえば、おれは病院に通っているよ」
沈黙を破り、露出させたまま諸津は呟いた。「カウンセリングも受けさせられた」
息子の現状を憂いた母親に通院を進められたらしい。そしてどうやら「発達障害」という診断が下りそうだという。
「発達障害?」
その言葉を知ってはいたが、詳しいところはよく分からない。古阪は早速スマホをインターネットに接続し、ウィキペディアでその項目を閲覧した。
やたらに専門用語が多く、酒でふやけている脳みそに内容が入ってこない。とにもかくにも、なんらかの障害ではあるらしい。ただ、その説明はどうにも曖昧なものに思えた。
「要するに、いまの社会にそぐわない人間をそこに押し込んじゃうような定義だろう」
榎木が言う。
「……おれはだから、そういう人間らしいよ」
諸津が言った。どこか寂しげな響きがあった。
「診断書が出れば、お済みつきだ。でもお前、別にそこまでじゃないよな」
古阪が言う。たしかに諸津には変わったところがあるが、それが異常とまでは思わなかった。二人は同じ大学に通っていて、共通の友人も多くいたし、あの頃は一緒にアルバイトだってしていた。諸津に社会性がないわけでは決してない。実際に古阪伝いに知り合った榎木とも良好な関係を築いている。
そんな諸津が「障害」という言葉で安易にカテゴライズされるのは、むしろそうやって括ってくるような側にこそ問題があるように思えた。
なんと言っても、諸津はいい奴だった。
「下らない。そんなとこ通う必要ないだろ」
「そうだよな、おれ、そこまで変じゃないよな」
憤る古阪に、諸津は頷いた。そして下腹に妙な具合に力を入れているらしく、ずっと出しっぱなしのものが頷くと同時に上下にぴくっ、ぴくっと動いた。心なしか、さっきよりも存在感と硬度を増しているような気がした。
「おれは変じゃないぞお」ぴくぴくさせながら、諸津は自らに言い聞かせるように呟いた。
「なにが発達障害なものか!」
古阪は、突然叫んだ。衝動に駆られたのだ。
その場に立ち上がり、素早く全裸になると「うおお」と雄叫びを上げながら夜の闇へと駆け出した。そのまま管理棟近くの便所まで行って、大きい方の用便を済ませた。「おい、すげえ」そして火の側に戻って来るなり二人に報告する。「トイレ超きれいだった。意外に設備いい」それから全裸のままチェアに腰掛けた。
諸津と違って古阪に脱ぎ癖はなかった。それだけ酔っていた。幸いなことに、途中誰にも出くわさなかった。
環境や設備も悪くないのに、妙に客が少ないキャンプ場だ。あまり知られていない穴場なのかもしれない。
「お前、また太った?」
古阪の裸体をまじまじ見ながら、諸津が聞いた。
「ああ……」
途端に苦々しい表情になる古阪。自分でも気にしているのだ。
「樽みたいになってきたな」
極端に痩せている諸津とは対照的に、古阪はもともと肉付きが良いほうだった。そして日頃の不摂生も祟って、年齢とともに益々だらしない体つきになっていくようだった。
「……ところでな、トイレ、ウォッシュレット付いてたんだよ。というわけで、おれはいまとてもクリーンなんだ。ほらほら、見てくれよ」
古阪は立ち上がって諸津に近づき、生尻を突き出した。さらに両手で尻肉を掴み、清められたそこがよく見えるように押し広げた。
「おい、やめろよ。汚えな」
ちんこをブラブラさせたままの諸津が、本気で嫌がっている低いテンションで言う。
「汚くないんだよ、ウォッシュレットだから。ちゃんと見ろって」
明らかに嫌がらせだった。酔っていて普段より質が悪い。体型について突っ込まれ、少し腹を立ててもいた。
「だから、やめろ。お前、酔い過ぎ」ぶらつかせたままの諸津が尻で迫る古阪をたしなめる。「いや、見ろよ、この愛らしい豚野郎のお尻をよお。この穴がどこに繋がってるか、ちゃんと考えろおお」さらに古阪はしつこく絡むので、温厚な諸津も辟易していた。
もろ肌脱いだ二人の男の間に、些か不穏な空気が流れ出した。
「おーい、なにやってんだ」
その空気を察した榎木が止めに入ろうとした。そのとき、一羽の蛾が焚き火に誘われ舞い込み、そのままひらひらと炎に飛び込んだ。
炎にまかれ、蛾はほとんど一瞬で燃え尽きた。まさに飛んで火に入る夏の虫だ。
あっという間だったが、スローが掛かっているかのように、その身を燃やし尽くす様がはっきりとイメージに残った。三人は目を奪われた。
それで間が空いて、少し冷静になったのか、古阪は大人しく自分のチェアに腰を落とした。またウィスキーを一口飲んだ。しばらくして、ふと思い当たったように諸津に尋ねる。
「お前、おれのこと頭おかしいと思っているだろう」
「ああ。お前は頭おかしいよ」
間を置かず、はっきり諸津は答えた。
……これだ。やはりそうだ。古阪は愕然とした。
うすうすそうではないかと思っていたのだ。こいつは、この露出狂は、皆に「ちょっと頭おかしいな」と思われ、また自分でそのようなキャラとして普段は振る舞いながらも、その実はおれを含めた周りの人間を逆に「ちょっと頭がおかしいな」と思っている。つまり、自分こそがまともな人間だと思っているのだ。これだ、こういうことなのだ。皆が皆、自分が正しく、狂っているとしたらそれは自分ではなく目の前のこいつ、という認識で生きている。発達障害にカテゴライズされそうな、この魔羅出し野郎でさえ。ああ、だがそれはしかし至極当たり前のことで、だからこそ、なんて異様なことなんだろう。
……ああ、世界は、こんな風に成り立っているのか!
全裸のままの古阪はその事実に辿り着き、頭を抱えて唸った。身体が冷えて周囲の空気が急にうすら寒くなったような感覚に襲われた。きっと全裸だからだろうけど。
諸津は惚けた表情で、手を使わずにイチモツを動かすことに再び集中し始めていた。
「……とりあえず、寒いならもう服着ろよ。諸津君もそれ、しまえば」
榎木が言った。流石にこの状況を見かねたらしい。
いつも穏やかな榎木の言葉に古阪は素直に従い、脱ぎ散らかした服を着始める。諸津も大人しくそれをズボンに収めた。
「あ、いたいた、ヘクサ!」
今度は榎木が唐突に叫んだ。
次の瞬間にはガガッという電動音が響き、シャツに腕を通していた古阪の右頬をなにかが掠めた。後方の木の幹がパスッパスッと乾いた音を立てた。
「仕留めたかな?」
嬉しそうにその木のところまで歩いて行く榎木の手には、電動エアガンが握られていた。そこから三連バーストでBB弾が発射されたのだ。
以前のキャンプで、格安でバンガローが借りられたことがあった。けれどそのバンガローのなかにはヘクサ、つまりカメムシが大量発生しており、なるほどこれは格安だ、と納得させられた。あの臭いには随分と辟易させられた。
それ以来、榎木はヘクサを目の敵に、いや半ば楽しみながら標的として狙っている。
「あ、まだいる」
ガガッと弾が発射される。野外でも存分に撃てるよう、ちゃんと土に還るバイオBB弾を装填していた。この日のために準備は怠らなかった。榎木はキャンプ中、電動ブローバック式のグロックを常に手元に置いていた。
「……さっき、トイレの辺りにも沢山いたぞ」
古阪がそう伝えてやると、榎木は「マジか!」と急にテンションが上がったように短く叫び、テントのなかに引っ込んだ。しばらくゴソゴソ荷物を漁って出てきた榎木はヘッドランプを装着し、ライフル式の大きな電動ガンを抱えていた。
あれは確かフルオート六百連発の凶悪なやつだ。むかしあいつの部屋で見た覚えがある。こんなものを持ち込んでいたのか。古阪は中学からの幼馴染に半ば呆れた。
「じゃ、ちょっと退治してくるから」
嬉々とした表情でヘクサジェノサイダー榎木は闇に紛れて消えていった。
「あいつも……」
古阪が呟くと、諸津も黙って頷いた。遠くの方でときおり、エアガンの発射音が微かに聞こえた。
考えてみれば、と酔いが醒めてきた古阪は思考を巡らす。
「発達が障害されている」というのであれば、世間の大抵の人間がそうなのではないか。まともなように見えたって、皆どこかおかしいところはあるものだ。少なくとも、自分の周りの人間はそうだった。脳裏に様々な人間の姿が浮かんでくる。あいつも、こいつも、みんなおかしい奴らばかりだ。すぐ横では諸津が焚き火の炎を弄くっている。ギラギラした目に炎の揺らぎ。そこからは感情を読み取れない。榎木はまだ帰ってこない。ヘクサの虐殺に夢中なのだろう。……だが、例えどのような人間であれ、皆が大切な友人だった。いい奴ばかりだった。……などと自分だけはまともな人間のふりなどしていられないことも分かっている。諸津に言われるまでもなく、きっとおれも頭がおかしい。まともではない。例えばもういい歳になるというのに相変わらずバイトで日銭を稼ぎ、怠惰で荒んだ生活とも言えない生活を続けているというのは、社会的に見れば完全に発達が遅れている証拠なのだろう。諸津のことをニートだのゾンビだの言えるような立場ではない。それも分かっている。
普段は屁理屈をこねくり回して「社会人としての役割」であるとか「人生のロールモデル」のような曖昧で時代遅れに硬直した概念に唾棄し、ことさらに強がって露悪的な言動を振りまこうとする古阪ではあったが、やはり自分がそうした大きな一つの流れから取り残されていることは否応なく思い知らされ、また年齢を重ねるたびに更に窮屈で暗いところに押し込められていくような、そんな感覚を味わっていた。
だからこそ、ごく身近な仲間である諸津がいよいよ「発達障害」などという烙印を押されようとしている事実、それには密かに動揺を覚えていた。やはり自分たちは、自分は、まともな世間から蔑まされるような、後ろ暗く惨めったらしい立場の人間で、いずれ完全に締め出されてしまうのだろうか。古阪はいつしか暗鬱の波に呑まれようとしていた。
「あらかた退治したぞ。もうこれで安心だ」
ライフルを肩に提げ、榎木が戻ってきた。
チェアに座ってコップにウィスキーを注ぎ足し「よし、飲もうぜ」となんでもない口調で言った。
そうだ、昼間から飲んでいるから随分と夜も更けたように思っていたが、まだ宵の口もいいところだった。まだまだ、これからではないか。
なんだ、我々はもっと酒が飲めるのだ。これから、気分良く酔い直すことも充分に出来るというわけだ。
「よし、飲む。あと、おれまた腹減った。なんか作って」
屈託のない声で諸津が言った。気が抜けたようなその声に、気分がまた少し軽くなる。
「そうか。じゃあ、待ってろ」
食材を入れたクーラーボックスを覗き、ここは一つ気の利いたものを男らしいラフな感じでささっと即興で仕上げ、炊事班長としての威光をより一層輝かせてやろう、と古阪は思案する。
先ほどの気鬱はどこか奥の方に引っ込んでいったようだった。どうせまたすぐにそれは這い出してくるのだろうが、まあそれはそれでいい。
とにもかくにも、いまは酒を飲む。野外で火を囲んで、誰はばかることなく、自分の気が済むまで。そのためにここまで来たのだから。
そうしてウィスキーの大瓶は空き、古阪の自信作はもはや味など分からなくなっている三人で食い散らかされ、ベイクドうんこのように薪をくべて大きくされたファイヤーは夜空に向かい激しくバーニング。榎木はライフルを乱射しサイレントマッドネス、古阪はまた理性を飛ばして「ちょっと頑張れば絶対いけた。絶対におれに気があったはず。やっとけば良かった」という過去の女の話をトーキング。その話はもうこれでメイビー四回目だった。どちらにしろ他の二人はろくにリッスンしてもいなかったが。諸津はいつの間にかまたペニスを露出させていた。夜風にさらされ心地いいのかフィーリングッドな顔をして。
まとも、というものが分からなかった。分からなくて当然なのかもしれない。そんなものは皆があるように思っているだけで、ほんとうは実存しない。
ただ酒を飲む夜だけが酩酊のなかを加速して過ぎ去っていった。
Day2へ続く。