もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

昆虫王者新年ドライブ

例年のように、年越しは関東平野をあてどなくさ迷っていた。

型遅れのジムニーは、後部の屋根が取り外し可能なビニールで出来ており、夏は屋根を取っ払ってカーステレオで井上陽水など聞きながら走るとシネマ的な風景となって気分がいい。しかし、今の季節に後部座席(座席が取り払われれているため、正確には座席というより荷台だ)にいると隙間風で寒くてたまらない。エアコンもいかれていて殆ど効かないのだ。前の年の大晦日は男四人で当てのないドライブに出て、後部座席に詰め込まれてひざを抱えて震えていると、まるで自分が傭兵にでもなった気がした。

今年は運転手と二人なので、ずっと助手席に座っていられるため寒さは感じない。エンジンの熱でエアコンがなくとも前部は暖まるのだ。確かに暖かい、だが快適な状況とは言えなかった。

まず、車内が生臭い。
思わず「まさか車の中で自慰行為に及んだのじゃあるまいな」と聞こうとしたが、すぐに思い浮かんだ。夏にこの車でドライブしたときも異常なまでの生臭さだったのだ。原因を尋ねると「あっ、もしかしたら」と奴はドライブインで車を止め、後部の荷物をあさり始めた。出てきたのは巨大なイカの屍骸であった。僕は奴にスパンスパンと鋭いミドルキックを浴びせ、凄まじい臭気を発するイカちゃんを道の駅昭和町のゴミ箱に放り込んだ。「掃除のおばちゃんごめんなさい」と逃げるように車を発進。窓を全開、後部シートを取り払っていても、信号待ちのたびに生臭さが漂ってきた。
また変なものを拾ったのではあるまいな、と詰問すると「もしかしたら前に鳥の屍骸を拾ってそのままかも知れないから、ちょっと見てみてくれ」と言う。僕はチラリと後ろを見た後「この車は生臭いのが基本仕様なのだ」と自分に言い聞かせて、ひたすら耐えることにした。

運転席のスギチは、三年前から三陸海岸の恐ろしく辺鄙な町に隔離された某大学の水産科におり、休みごとに限界寸前のジムニーで帰ってくる。荷台には、ペットのタランチュラやよく分からない色の両生類だの肉食魚とかそういったゲテモノ類と、あとは途中で拾った屍骸だの流木だの石だの若干のフラストレーションやいかれたエピソードを詰め込んで。
そろばん塾へ行く途中にトカゲを見つけて、それを追いかけるうちに路地裏に迷い込み、気がついたらどぶ川で「ベットタウンに潜む謎の生物を追え!僕らは秘境探検隊」みたいになっていた小3のあの頃。スギチはその頃から変わらない。いや、変わらないのではない。あの頃の路線をそのままに突っ走ってきたのだ。だから、気だるいシティライフを送る、知性的で洗練された僕のような常識人から見れば「あ、こいつかなりオカシイな」という感じで香ばしい。
まぁ、とにかくスギチを巡るエピソードは枚挙に暇がない。車が生臭いくらいは当たり前なのだろう。

酔っ払って気に食わない院生のスキューバダイビングセットを小便で清めてやったら、丁度その院生が来てボコスコに殴られた上に、クリスマスパーティ中の研究室を引き回されて「小便をかけてごめんなさい」と教授の前で神妙な顔で謝る羽目になった。そんな話をスギチは「全く、とんでもないサンタが来たもんだゼ」と何故かニヒルな感じで結んだ。
その話を聞いても、いつものように笑い飛ばす気にはなれなかった。車に酔い始めたのだ。
廃車寸前のジムニーはサスペンションが壊れていて、くそみたいな田舎道の振動を僕に直接伝えてくれるのだ。そして奴の運転は荒い。普段あまり車に酔わない僕も、油断すると酔う。そして僕が「酔った」と言えば奴は嬉しそうにハンドルを小刻みに切り出すのだ。スギチは普段明らかに威張っている僕が弱ると、あからさまに嬉しそうなのだ。

吐き気と生臭さを耐えて黙りこくった僕に、優しいスギチ山は気を使い話しかけてくれる。
「夏にさ、思ったんだよね。昆虫ってしぶといでしょ?だからそれを食料にすれば、どこでも生きていける。とりあえず練習でカブトムシ食ったよ」
「…うまかったのか」搾り出すように僕は聞いた。
「煮たり焼いたり揚げたり、一通りは試したけど、きつかったね。一番ぐっときたのはやっぱ生食だね。硬い外殻を歯でばりっと破ると、あのカブトムシ特有の匂いが濃厚に広がって…」
僕は窓を開け、タバコを吸った。マルボロがへんな味がする気がして、すぐに火を消した。
「でもさ、クワガタは意外といけるんだぜ」
僕は目を閉じて「『風の谷のナウシカ』みたいな世界に生まれなくて良かった」と思った。しかし、胸の上辺りで吐き気は明確になった。


ヘッドライトが夜道を照らす。何もない田舎道だ。関東平野は広い。海も山もなく、目的地を決めるのに苦労する。腐ったベットタウンと特色のない田舎がどこまでも続く。当てのない深夜のドライブは本当にあてがない。これといった感慨もないまま新年を向かえ、カウントダウンと「明けましておめでとう」の声はどこかに吸い込まれていくよう。
年越しの瞬間、衝動的だが半ば義務のような感じでスギチにチューをお見舞いした。今年は女の子にチューできるのであろうか。まぁ男でいいか、モホモホモホモホ。

無理やり「年越しラーメン」を目的と決め、佐野方面に向かった。カーナビなぞついていないので僕ちゃんナビである。
「そこ右折ね。…おい、なんで左折すんだよ」「うはは。ごめん」というやりとりが五回くらいあって、またもや無駄に関東平野の手のひらで踊らされた。
僕も小学生くらいまでは右左がとっさに分からなかったのだが、スギチはもっとハイレベルだ。視力検査の時には恥をかかないために左手に鉛筆を刺す。「痛いほうが左」ということだ。
「はい、お箸持つほう行ってちょうだい」とか言っていたら、何だか愛しさが溢れてきて、僕はスギチ山君の腿をそっとさすった。もほほほ。


しかし、苦労の甲斐もなく佐野でラーメンは食えなかった。到着寸前で引き返したのだ。
土佐犬連合」というあからさまにヤクザなおじさま達の飲み会を抜けてきたエノーンを拾いに武里までリターン。友情がなせる大英断であった。

だがしかし、武里に帰り着くとエノーンは既に眠りの中にいた。一瞬、家の前で脱糞をしてやろうかと考えたが思いとどまり、携帯に「もう死んでやるからな!」とメッセージを残して再び僕たちは車に乗った。

やけくそで不味いことが分かりきった近所のラーメン屋に入り、「豪勢に行こうぜ」とさして食いたくもないセットメニューを注文した。期待通りに不味かった。
「安くて不味い料理」はしみじみと悲しい。

「エノが悪いエノが悪い」と呪文を唱え、すべての責任をエノーンに押し付けてしまおうとしたが、やつは大晦日ぎりぎりまで目が回る忙しさだったのだ。寝てしまっても無理がないので
、結局は車内にやるせなさが漂う。
「この糞みたいな関東平野から抜け出せない。どこに行きゃいいんだ。ファッキンファッキン(ファーストキッチンではない)と叫んでも、それは虚しく拡散してくだけじゃねぇか。利根川なんて泥の川じゃねぇか。まるで関東平野は俺のだらしのない青春だバカヤロー愛のバカヤロー」行き場のない怒りは得てして自分に向かうものだ。
「こうゆうときこそロックだぜ」とスギチが渡したテープには堀内たかおが入っていた。嫌になってテープを変えたら森田童子が流れ出した。面倒なのでそのまま流していたら、三ヶ月くらい続く強烈な欝に片足を突っ込んだ気がした。
埼玉と千葉の県境を明日なき暴走していると、目に飛び込むのは何故か葬儀屋とか火葬場の看板ばかり。時々アクセントでラブホテル。そしてその看板の一々をスギチが嬉しそうに読みあげるのである。
正月早々おれは何をやっているのだ?僕はあからさまに不機嫌になった。

またもや道に迷いながらも、関宿城跡という「こんなとこに城あったのか。無駄じゃね」と言いたくなる初日の出ポイントに到着した。
なかなかいいポイントらしく、日の出が迫るとともに人が沸いてくる。僕たちは寒さに震えながら日の出を待った。


そして、近年で一番キレイに初日の出が昇った。オレンジのまん丸であった。
隣のスギチはその瞬間「あ、でちった」と屁をこいた。微かに臭かった。


現金なもので、初日の出を見ると僕はあっさりと元気を取りもどした。「一年の計は元旦にあり」などと陳腐なせりふを口走るくらいにコロッと転換した。「いや、やっぱいいよね初日の出!全てが洗われた気がするね。今年一年は、前へ前への精神で地に足付けデフテックサンシャイン大作うぱぱ」とはしゃいでいると、スギチの様子がおかしい。
「さっきの女連れは何とも見苦しかった」「あの院生の野郎、岩手戻ったら速攻勝負してやるからな!」蕎麦屋の看板を見れば「年越し蕎麦もやってねぇで何が蕎麦屋だ。手打ちだと?ナマ言うんじゃねぇ」と普段からはあり得ない暴言の数々。僕は面白くなって、身近な友人の悪口を引き出そうと誘い水を打ったが「おい、コスゲリョウタは本当に性格悪いぜ。そんなだから女を不幸にしかできないんだ。え、分かっているのかコスゲリョウタ」と説教してきた。スギチは何故か僕をフルネームで呼ぶのだ。
長時間の運転と寝不足による疲労と、日頃抑圧されているフラストレーションが、初日の出と共に一気に開放されたようだった。


その後、スギチ山君は居酒屋でとてつもなくギラギラした視線を団地妻に送り、僕が「あれはないだろ」と言うと「うちの学校の掃除のおばちゃんより全然ましなんだよ!」と叫んだ。岩手の生活では、女性を見る機会が殆どないらしいです。
僕の部屋では「コスゲリョウタは最近全然だめだぜ!」と酔っ払い、新築の壁紙を剥がして「こすげりょうた」と浮き文字を作ってくれやがった。

そして、今その「こすげりょうた」を見ていると「おれ、最近愛に溢れていなかったな」と何故だか思った。何となく。


正月はこんな感じで「今年大丈夫だろうか」と思いながらも飲んだくれていた。
酒が残る頭で冬の朝日の中にいると、世界はすがすがしいようでいて残酷な気がした。「どいつもこいつも僕ちゃんも、みんな迷子なんだ」と涙ぐみ「世界は壊れかけのレイディオだコノヤロー」と叫びたくなる。
どうでもいい、と思ってしまえば、僕の生活など殆どがどうでもいい。もはや自分自身もどうでもよく、まるで幽霊のようだ。「誠意」も「相反する倫理観の妥協点」なんて言葉も宙に舞い、へらへらと力ない笑いで流される。
バーのママのようなお姉さん(高校の同級生だけど)に「あんたは一回刺されてみないと分かんない」と言われましたのだ。
僕もそう思う。だから刺されにゆくか。血まみれになっても「ありがとう」と言えれば、僕はホンモノになれる気がする。臓物的な愛が溢れ出すと思う。気持ちの悪いメタファーみたいだなぁ。

「どうでもいいや」なんて状態で人と関わってはイケナイのだと思う。思ってはいるのよ。
だから、とりあえず友達よ。
僕はきっとしばらく元気がないぜ。それか鼻持ちならないぜ。ほっておくか、暇ならぶん殴ってもかまわないぜ。
愛が溢れたら、また会いましょう。
一体誰に向けて書いているのだおれは気持ち悪い。
とりあえず、いま必要なのは、世界の片隅で本を読むことなのだろう。そんな気がするぜ。

それか、カブトムシの幼虫でも食ってみるか。

久しぶりに長いの書いちゃったけど、最後まで読む人はいるのだろうか。東京に戻ったら水道が止まっていないだろうか。


ぱぱい。