もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

恋文地獄篇5~冬のおわり~

『拝啓。
愛しい恋人よ

なにかに裏切られたとか、なにかを失ったとか、そんなときに思い出すのは、いつも君のことだった。
それは君を恨んでいるからとか、そんなことばかりではないような気がする。

悲しかったり、やりきれなかったりするときには、君が大きな救いになっていた。
もう手に入れることがない代わりに、失うこともない。すべてを君のせいに出来るのは、すべて君のお陰だ。

憎しみをぶつけるたびに、新しく何かを失うたびに、それを回収して君は果てしなく肥大しつづける。
そんな君がいたからこそ、僕は生きてこれたと言えるし、死んだままだったとも言える。

恋人よ、
僕はこれでいいのか、
答えてくれよ。
でも、君は決して答えないだろう。』



 電気が止まった。ということは、と思いガスを捻ってみると案の定止まっている。ライフラインの定説通りだ。やがては水道も止まるだろう。いまは冬だ。汗をかくこともない。人と会わない生活なので、入浴のことはあまり考えなくていい。いまどき飲み水に困ることもない。この国ではまだ、水はタダで手に入る。問題は寒さだ。灯りのつかない部屋の雨戸を閉め切り、私はありたけの布団で身を包み、昼も夜もない生活を送る。
 私は貧乏している。しかし結局それはただの貧乏ごっこなのだ。第一、家賃を払えば僅かしか残らないとは言え、親元からの仕送りがある。バイトでもなんなりすれば、公共料金の支払いに困ることなどない。だが私は働かない。最近は授業にすら出ない。ただ、東京の片隅の老朽化したマンションで息を殺して、しかしそれでも呼吸だけはしている。
 垢じみた布団のなかで、そろそろ痒みを通り越してきた頭髪を掻き毟りながら、未熟な厭世観で自らを持て余し、それから、別れた女のことを考えている。自分でもそれが正しいことだとは勿論思わない。だが彼女を想う。いまでは出会いや別れの劇的な場面よりも、何でもない日常的な仕草や会話の癖、そんな細部ばかりが浮かぶ。逆に言えば、友人に寝取られたいま現在の彼女のことは考えなくなった。
 ある意味、私は救われたのかもしれない。ディテールを追ってゆくうちに彼女の全体像は曖昧になり、彼女はもはや現実にそこにいた彼女ではなくなってゆく。かつてそこにいて、いまはもういない「失われた女」を私は想っているのだろうか。そう考えると妙に気分が落ち着いて、こうなることが全て予定調和だった気さえしてくるのだ。――結局、本当は彼女のことなどどうでもよいのかもしれない。虫歯の穴に丸めた舌先を突っ込むように、私は私自身の欠落や怯惰を味わっているだけではないのか。

「いるんだろ? おい、何してんだ」という男の声がした。電気は止まっているのにドアホンは電池式なのでよく鳴る。それをいつものように無視していると、乱暴なノックの後に声が続いた。煙草の買出しに行った後、鍵をかけたか自信がなかった。そう思っているうちにドアが開き、若い男が入ってきた。
「くせぇ、なんだよこの部屋」と言って玄関に溜めたゴミ袋を蹴っ飛ばしたのは、東京に住む従兄弟だった。

「お前さ、ぜんぜん連絡してないだろ? おばさん、すげぇ心配してたぞ。きっと、おじさんもさ」私は年長の従兄弟に「ああ、うん、そう……」と曖昧な返事をし、車窓に目を向ける。無機質な首都高の側壁が流れてゆく。
 従兄弟のロードスターの助手席は狭苦しいが、それよりも久しぶりに着たスーツが堅苦しい。早朝(といっても私には関係なかったが)に突然現れた従兄弟は私を車に乗せ、まずは自分のマンションに向かい、そこで私はシャワーを浴びて従兄弟の黒いスーツに着替えさせられた。私の部屋のシャワーは水しか出ないし、スーツはコタツの中に丸めて放り込まれていたからだ。
 親類一堂集まる法事に向かっているのだ。
 私は出席を拒否したが、受け入れられなかった。従兄弟は相変わらずエネルギーが有り余っている様子で、強引に私を連行した。両親は勿論、親戚縁者に合わす顔などない、それくらいは自覚していた。
 ハンドルを握る従兄弟の顔を上目遣いに覗う。確か、勤めていた運送会社を辞め、独立開業したはずだ。これで私の本家では三代自営業が続くわけだが、果たして三度目の正直となるかどうなるか。祖父も叔父もことごとく破産しているのだ。どちらにしても、年齢は私と幾つも違わないのに、従兄弟は余程しっかりしている。自衛隊上がりの彼からすると、いまの私などゴミ虫同然に見えるのではないか。自己完結する世界や同じ類の人間のなか以外での私などこんなものだ。数々の引け目に脆弱さが露呈する。
 久しぶりに見る午前中の光が空々しく、早くも気が滅入る。

 法事の後の会食の席で、私はやらかしてしまった。ひとしきり親戚一同からお説教を受け、しかしそれは家系のなかで一番の年少の私に対する暖かみのあるものであったが、久しぶりに髭を剃ってむき出しになった肌と同じように、脆弱な私の神経はぴりぴりと外気に刺激され、年長の従兄弟達との何気ない会話から破綻を来たした。
 昼間から誰も注文しないウィスキーを一人で煽り、自分ですらその根拠を疑う精神論を吐く。勿論そんな私の言葉は上滑りもいいところだ。親戚のなかで大学出は私の父親くらいのもので、従兄弟たちも皆早くから働いている。そして私自身は実社会において何の役にも立たぬ文学部の、しかも五年生である。今年も卒業の見込みも内定もない。現代社会の東京下町の低所得者層の人生の苦味は想像できるが、私には私のインテリ青年としての苦悩があるのだ。といったところで、実はインテリらしい本などろくに読んでいないし、その場の「正義」すらこちらにはないのだが。
 私は恵まれた状況にあり、それに甘えきっている。説教の一つも受けて当たり前の立場だ。だが、それがどうした。私は、私の立場から世界を想定するしかない。だからこそ、あんた達に言ってやりたい。それが私のリベラリズムだ。しまいにはグラス片手で立ち上がり演説を始める。
 万国の中途半端なドグサレ諸君、決起したければせよ。どうせ君たちの苦悩など誰にも理解されない甘えである。私もそうである。だからこそ、自分を崇めるように私を崇めよ、それが個人に起こる革命という連帯である。私も君たちを崇めるように自分を崇めよう、ハイル私! 私、バンセー!
 周りにいた従兄弟たちは呆れた目で私を見つめ「友達、ちゃんといるのか」などと気遣ってくれる。途中、別のテーブルの父親と目が合ったが、父はすぐに叔父との会話に戻った。心配そうにこちらを見ている母親の視線を何度も感じた。「痛さ」に甘えられる私は、随分と楽なポジションに納まったようだ。



『恋人よ、

あらゆるものを、僕自身を無為にして、残ったものはなんなのだろう。
日々が曖昧に続こうが、それに飽きて何かをするフリをしてみようが、最初から分かっていたのだ。

結局は君を巡る繰り返しのなかで、僕は僕なのだ。
だから、僕は僕などではない。
どちらでも、同じことだ。』



「とりあえず、これで何か食べなさい。顔色、悪いから」と母親に渡された金でパチンコを打っている。一万円札が銀の玉に換わり、それが次々に落ちて吸い込まれてゆく。私はそれを眺める。

 会食のあと、叔父が言い出して、一同で寺に隣接する庭園に行った。私は一人離れたベンチにだらしなく横になっていた。玉砂利が冬の夕陽に光っていた。
 母親が来て、心配そうに声をかけてきた。母親は高校を出てから家の事情でずっと働いており、今日もたまの休日に父方の親戚の集まりに出て、さぞや疲れていることだろう。もう彼女もいい歳だ。おまけに一人息子はこの体たらくで、最近は連絡すらつかないのである。仕送り用の銀行口座の通帳を記帳することで、私の安否を確認しているのだろう。「大丈夫か」と聞かれて、私は「大丈夫、おれ、頭いいから。頭いいから、きっと大丈夫」とうわ言のように繰り返す。むかしから、屁理屈ばかりを言って頭の良いふりをしていた。いまは「ごめんなさい」としか言葉が出てこないので、代わりに「おれ、頭いい」と呟く。もちろん頭など良くはないし、もはや屁理屈にもなっていない。大丈夫なわけはない。

 全く当たらず、リーチすらろくに掛からず、もうすぐ貰った金は底をつく。隣の席には派手な格好の老婆が煙草を咥えながら打っている。そちらは大当たりが続いている。

 北関東のベットタウンに戻る両親について実家に戻る気は私にはなく、それでも意思のない木偶のようにふらふら駅までついて歩いた。
「お前、なに考えてるんだ」父親と会話するのは久しぶりである。だが、案の定まともな会話にはならなかった。ブツブツと自分でも分からぬ繰り言で答える私に父は憤り、その父を、今朝私を迎えに来た従兄弟が強引に引っ張って地下鉄の階段を降りていった。私はそれを曖昧な表情で見送る。父方の家系は基本的に皆、気が荒い。男達は妙に目がギラギラしているように思える。そのなかでは大人し過ぎると言われる父ですら、これは離れてみて気づいたのだが、目の色があからさまに変わるときがある。浮き沈みの激しい、破天荒な叔父が大黒柱の本家で、苦学して大学を出た父だ。思春期に散々反発しただけ、いまの私に胸を張って言えることはない。私は環境の許す限り、したいことをしている。つまり、なにもしないことが私のしたいことだ。

 台が悪いことはもはや明白で、最後の一万円札もあっという間になくなりそうだ。母親から貰った小遣いを全てすってしまってから、私は「ごめんなさい」と呟くのだろう。例えば、言えなかった言葉は、あるいは言っても無駄な言葉は、世界に向けて呟くのだ。私はこのしょぼくれたシチュエーションのなか、世界中に「生まれてきてスイマセン」と呟く。全世界の住民の顔に唾を吐きつけるか、もしくは彼らに足蹴にされる。自己完結型の私の思い描く「対世界」はそのどちらかだ。だから、私はそこにいる対象を、本当には必要としていないのだろう。いつだって、そこにあるのは私だけだ。
 そろそろ終わりかと思っていたら、急に当たりが来た。華々しい演出でケンシロウがラオウを黒王号から引きずり下ろし、それから私は世紀末救世主となって強大な敵の数々を打ち倒していった。ユリアが愛を捧げ、バットとリンは感嘆の声を上げる。北斗神拳炸裂の大フィーバーだ。まさしく現金なもので、現金が手に入る予感がすると、たちまち金の使い道を考え出した。特に欲しいものはなかったが、とりあえず旨いものでも食べよう。溜まっていた料金を支払ってガスと電気を復活させ、生活を立て直すことも考えよう。
 だが、華々しいフィーバーは尻切れトンボのように終わり、閉店間際になって換金すると、結局は二千円ばかりのマイナスだった。
 こうして私の生ぬるさは続くのか。私の親不孝や贖罪意識はこんなものか。つまらぬ話だ。

 帰り道の繁華街を抜けると、様々な顔が様々な表情で通り過ぎてゆく。そのどれにもいちいち生活や志向や人間性があるのだと思うと、気分が悪くなる。寒さと苦渋に歪む私の表情を見た通りすがりの幾人かも、私と同じように気分が悪くなったことだろう。

 久しぶりに、彼女に電話がしたくなった。
「今日はこんなことがあった。つまんない話だろ」
 そう、つまらない話だ。つまらない話を、つまらないと分かっていながら聞いてくれる彼女が、恋しかった。
 しかし私は携帯電話を持っていない。持っていても、しないだろう。出来るわけもない。
 それに、話を聞いて欲しい相手は本当に彼女なのだろうか。



『拝啓
恋人よ

僕は気が狂いそうだ。いや、もうすでに狂いかけているのかもしれない。あるいは、最初から狂っていたのかもしれない。ということは、いまの僕はある意味で正常ではないか。
……どちらでもいい。同じことだ。

目に映らぬ恋人よ、
君は亡霊のように僕を支配し、前提のように逃れられない。
僕は君に隷属する。
君はもはや僕なんだ。

架空の恋人よ、
曖昧なものはラディカルに、支配するものは打ち壊してしまえ。
主体性をもって、僕は君を変革しよう。
君は嘘っぱちだ。すべては作り話だ。

君のおかげで僕は独立国家であり、同時に植民地であり、ファシストであり平和主義者だ。
……どちらだって、同じことじゃないか。

だから、僕はただ待っていたのだ。』



 既にして曖昧な亡霊、前提として支配するという後期形態を獲得した国家によって、我々は「幸福」社会からの離脱を制限されている。社会的規律や公序良俗に反しない範囲での「幸福」追求が国民の責務である。かつて「貪欲」は罪悪として捉われていたが、いまはその形を変え、むしろ奨励されるべきものとして、この国はそれに対して事細かなサービスを提供する。それらを享受せずにいることは「罪悪」であって、「不幸」へと繋がるのだ。幸福原理主義の支配がそこにはある。
 我々は、現体制の失策や社会不安に対して、批判的な言説を持つ権利を保障されているが、それも国家の支配の範疇である。我々は確かに支配されている。そして、もはやそのこと自体を声高に叫ぶことに、意味はないものとしている。

 西武新宿線沼袋駅近くのマクドナルドの店内はほどほどに混んでおり、バックに流れるJポップと雑音が溶け合う。隅の方の席にはジャンバーも脱がずに腕組みして目を閉じている中年男がいる。傍らには大きなリュックと紙袋。側を通ればあまり良い匂いはしないだろう。私も人のことは言えないが。

「貧困」もその姿を変えた。かつての神秘的な、ある意味で特権的なものとしてあったそれは、個人の選択の失敗、怠惰や身勝手な社会からの逸脱の結果として捉われるものとなった。我々は「貧困」をそのような罪罰として教えられてきた。「貧困」は、かつてとは別種の病となり、だからこそいまだに我々を蝕んでいる。

「我々は、我々は……」と呟く空虚な個人の私は、部屋の寒さに耐えかね、しかし金もなく、近所のマクドナルドで百二十円のコーヒーで百円のハンバーガーを流し込む。
 先ほど古本屋で百五十円で買った岩波文庫を開くと、そこには明治の歌人の断唱がある。
肺病に冒された歌人は、あらゆるところから膿が噴出し、麻痺剤を用いても耐えかねる痛みから、寝返りすらままならない。それでも彼は仰向けのままに筆をとり、歌を吐き、淡いスケッチを描き、誰に読ませるでもなく病床生活を綴る。歌人は殆ど消化されることなく排出される大量の便通の痛みを知りながらも、何かに憑かれたように病人の食事とは思えぬものを取り寄せ、「うまし」と大量に食い、それを克明に書き記す。出戻りの妹と老母が、忙しさの片手間に粗末な食事で自身の看護に当たっていることを知っていながら、友人が送ってよこした鴫を焼かせて、結局一人で三羽全てを食ってしまう。
 私は奥歯に挟まった萎びたピクルスの破片を指で取り除きながら、それを読んでいる。さて、このコントラストの意味はなんだ。私の身体は、ハンバーガーやインスタント麺や食パンに擦り付けられたマヨネーズで、いまのところ健康に機能している。歌人の死の十年後、ローマ字で書いた日記に「病気をしたい。余を救えるのは、病気だけなのだ」と書いた別の放蕩貧乏な歌人は、その更に数年後に本当に病気になって死んだ。
 私は、多分死にたいのだ。だが痛いのは嫌だから、消えるように苦しみなく死にたい。そうは言っても「では……」と慈悲深い髭面の救世主が、あるいは死神が、親切心で私の命を引き取りにやって来たら、やっぱり私は焦って「ちょ、ちょっと待ってよ!」と前言を撤回するだろう。

 だから、私は待っている。



『つまりは「絶望」と漢字で書くのではなく、平仮名で「ぜつぼう」と書くのがこの時代だ。
例えば「絶望」の後には「希望」が待っている気配が感じられるが、「ぜつぼう」の後には何もやって来ない。生ぬるく浸透しきった「ぜつぼう」にずっと包まれているだけだ。
そこから抜け出そうと「希望」を探しても、あるのは「きぼう」でしかなく、それは「ぜつぼう」のなかに含まれているのだから、結局はどこにも行ける気はしない。
それが僕たちの時代なんじゃないのか。
死の味すら舐めずに、ただ費やされるように消えてしまう気さえするんだ。』



 躊躇うこと、前進という選択の拒否、それは果たして個人の怠惰や意思の薄弱さを超えた思想性を持ちえるのか、その判断ですら、相対的な価値基準を標榜する我々の「社会性」に阻まれる。罪悪は特権なのか、特権だから罪悪なのか、あるいは罪悪でも特権でも何でもないのか。仮に力強く不幸を選択したとして、そこに幸福は宿るのか。

 自身の曖昧な「貧困」、怠惰による「罪悪」を、この時代において再特権化するという私の高度な、しかし要するに「小人閑居して不善を為す」という古代中国からの格言に簡単に戒められるような思想的試みは、隣席のカップルの演じる茶番劇によって中断された。
 冷静に何事かを話し合っている様子であったアベックの席からは「やっぱり価値観が違うから」とかそんな言葉が聞こえ始め、それを言っているのは若い女の方で、男は金髪でスカした格好の癖に涙ぐみ出し「ああ」とか「うん」しか言葉を発さなくなった。女は今風に巻かれた長い茶髪を手持ち無沙汰なのか指で触り、押し黙る男の前で小さくため息を吐き、「じゃあ……元気でね」と去っていった。
 全くの茶番劇だ。私は読んでいる本から目を離し、あからさまな視線を向けないように注意しながらそれを見守った。私にも、当事者として何度か覚えのある茶番だ。
 残された男は呆けたように女がいた空間を見ている。それから暫くして男は携帯を弄りだした。男の前には、女と一緒に食っていたフライドポテトが冷えて残っている。店を出るときに、男は嫌でもそれを目にするだろう。もしかしたら、その光景が男の心にトラウマのように残るかもしれない。

「別れ話の後の、冷えたマックのポテトがトラウマだ」
 それが我々の時代を象徴する何かかもしれない。
 くだらない。
 だが、いや、だからこそ、安心するのだ、若者よ。
 今すぐカウンターに行って料金を支払えば、すぐに揚げたての油を滲ませた新しいフライドポテトが手に入る。フライドポテトがもう食いたくないのなら、コンビニへ行けばスタミナ焼肉弁当だの海草サラダだの、幾らでも買える。今度はそれを食い散らかして、また残し、また買いに行けばいい。それが新しい恋やトラウマや夢や希望や失望や愛を生む血となり肉となるのだ。
 幸か不幸か、我々はそうした時代に生きている。ならば、食えばいいじゃないかと、添加物を養分にして開き直るべきだ。
 慢心するのだ、若者よ。
 そして、こんな社会など滅びてしまえばよい。私には関係ない。

 私は煙草と軽食くらいしか買わないから分からないが、もうコンビにでは「お金じゃ買えないもの」というコーナーが出来てるんじゃないかと思う。いや、気づかぬうちに、そうしたものは私の買ったマルボロライトと明太マヨお握りの入ったビニール袋にも紛れていたのかも知れぬ。レシートをよく見たほうがいいのかもしれない。
 だが、私はそれをもう買わないのだ。正確に言えば、買えないのだが。私は私の罪悪による「貧困」で、コンビニで買い物すらままならない。それに、もはや買いたいとも思わない。それは必要ないものだ。

 だから、私は待っているのだ。