もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

恋文地獄篇6~二度目の春・前編~

『拝啓
恋人よ


春は人の心をゴム毬のようにするらしい。後先考えられずに弾んで、それから落ちる。出口のない部屋に転がってゆく。

恋人よ、
君は春に似ているのかもしれない。
始末におけないのは、それが何度も巡って来るものだからだ。
君はもう何度やって来て、そして僕をかき乱し去っていっただろう。

愛しい恋人よ、
けれども僕は分かっている。
螺旋を描くような繰り返しにも、その頂点があるんだ。
プロローグとエンドロールの間に、僕は君を切望する。

不在の恋人よ、
君は僕の唯一の救いであって、手段と目的を兼ねる。
だから、僕は待っているのだ。』



 待っていた。しかし、待っていることに慣れていると、自分が何を待っているのだか分からなくなりはしないか。

 相変わらず、私は何もしなかった。いつの間にか年は明けて随分過ぎた。朝夕の寒さが和らいできたことで、部屋に閉じこもりきりの私も冬の終わりを感じ始めていた。
私が待っていたのは、永い冬の終わりなのだろうか。何かが完全に終わり、また始まる春なのか。ひもすがら布団に包まり、何をするでも、考えるではなしの私の脳裏に、春のイメージが浮かび始めていた。
 それは例えば、世間が騒ぐ卒業、入学という年度の始まりの変化による活気ではもちろんなく、浮かれた花見の景色でも、人々の別れと新しい出会いの季節でもない。――完全に死滅したかのような灰色の大地に、色彩が次々と芽吹いてゆく――そんなイメージとしての「新生の春」だった。
 特別に自然を愛する性向でもない私が、東京の人工物の芥にまみれた六畳間の片隅で、待っていたのは、まほろばの春、聖なる春だ。

 いつものように夢うつつでいると、雨の音で目が覚めた。引きこもり始めてから、妙に雨の音が苦手になり、雨の日は意識が変なところにもってゆかれるのだ。舌打ちをして寝返りを打つと、ザァザァという音が閉め切った雨戸の向こうからではなく、もっと近いところから聞こえてくるのに気づいた。
 ふらふらと立ち上がり、仕切り戸を開け、玄関の方に行ってみると、雨はそこに降っていた。
 それは激しく、打ちつけるような雨で、冷蔵庫や溜まったゴミ袋、紐で括った古雑誌の上に降り注いでいた。私は暫く呆然とそれを眺めた。雨脚は太く、途絶えず、ずっと音のなかった私の部屋中に音を響かせていた。

 降り注ぐ雨の中心まで行って、天井を見上げた。次々と落ちてくる水滴が顔面に打ちつけ、鼓膜は激しい雨音に支配される。見る間にスウェットが濡れ、肌に吸いついてゆくのが分かる。
 奇妙な状況だった。いつしか笑みが浮かんでいた。これは、再生の雨か。終わりきった私に、新生の春の訪れを告げる雨なのか。春を待つ心に、天の啓示が下ったのだろうか。雨は妙に暖かく、しかし激しく身体を包み込む。
 マンションの一階の部屋に降る雨、いつしか私はそのなかで踊っていた。相当におかしな踊りであろうが、一心不乱に踊った。もうすぐやって来る聖なる春を、私は心から迎え入れよう。我を忘れ我を殺しまた我を生かす、これはその為の儀式なのだ。
 雨のなか、声を上げて、私は笑った。

 やがて雨は止み、しかし間隔を空けてまた振り出す。しゃがみ込んで膝を抱え、髪からポタポタと滴を垂らして、そんな何度目かの雨間に、私は思った。これでいい、もっと降り続ければいい。一回や二回では足りないのだ。何度でも、飽きるほど、降り続けて私を洗い流してくれと。



『恋人よ、
君は何度でもやって来ればいい。

そのたびに僕は泣き喚き、怒り、安らいで眠る。
果てしない無駄話の、お笑い草だ。
そして、それを何度でも君に伝えよう。

待つことに飽きたころ、君はまた僕を訪れるだろう。
夜のように優しく、白日のように残酷な、繰り返しの恋人よ。』



 踊りつかれた私はその場に倒れこんでいた。すでに床には水溜りが出来ている。雨はもう暫く降っていなかったが、心には再生を果たしたという念があった。
 チャイムが鳴る。私の春が、聖なる新生が、人の似姿を借りて玄関にやって来たのだろうか。私は立ち上がり、ゆっくりとドアを開いた。

 春は、若い男の姿をしていた。春の男は私を見るなり「うわっ」と言った。私は君を迎えるために、こんなにも濡れ、疲弊し、だが心静かに待っていたのだ。「うわっ」はないだろう。
 しかし、私はこの不躾な春に、どこか見覚えがあった。
「……あの、ほんと、すいません。まさか、こんな……」
 私の春は、以前手紙を燃やした煙のことで苦情を言ってきたことがあった、上の階の学生の姿をしていた。全身ずぶ濡れの私の風体を見て、ひたすら謝りながらも、目の端に得体の知れないサイコへの恐怖がチラついているのが分かる。付き添いの管理人もしきりと恐縮して、大量の雑巾や新聞紙を置いていった。

 何のことはない。天井から降った雨は、二階の住人が降らせたのだ。男の一人暮らしの乱雑さから、流しに生ゴミをそのまま流していて、老朽化したマンションの下水管がそれに耐え切れずに詰まる。そして排水が階下の私の部屋に雨となって降り注いだのだ。
 再生の雨は、天からの啓示は、頑固な油汚れやそれを取り除く洗剤やラーメンの残り汁と混じった水道水だったのだ。よく考えれば、すぐに分かりそうなものだ。

 だが、私にはそれが確かに新生を促す雨に思えたのだから、そうなのだろう。負け惜しみとも取れる悟りを呟きながら、さすがにそのままにしておくのも気が引けたので、とりあえずシャワーを浴びようと、濡れた部屋着を脱いで浴室に入った。ガスは止まったままなので、水シャワーだ。風邪を引く可能性は濃厚だが、すでにずぶ濡れだ。どちらにしても同じことだ。それに、新生の雨をまた冷水で洗い流すというのも面白い。徹底的な禊ではないか。やはり、これはこれで啓示だったのだ。何者かが私に何かを悟らせようとしているのではないか。

 シャワーの栓を回すと、ちょろちょろと水が出て、すぐに止まった。
 また思い当たった。ついに水道も止められたのだ。このタイミングで、これだ。

 成るほど、これは啓示だ。
 私の神聖なる新生をことごとく覆すバカバカしさで、天は「死ね、ばーか」と言っているのか。確かに消滅の願望は常に抱いてきたが、誰かにそうせよ命ぜられたら、それには従うものか。私は私自身の願望を自分だけの所有物として、好きなように選択するのだ。

 啓示や新生といった幻想に一時は捉われようが、本当は分かっていた。
 待っているのは、別のものだ。そしてそれはもうすぐやって来るだろうし、すでに訪れているのかもしれない。私は私の幻想を知っている。
 待たずとも訪れるだろうが、他にすることがないので、やはり私は待っている。
 


『拝啓
恋人よ


そろそろ君も分かってきたんじゃないのか。
君は僕の絶望だ。
決して叶えられない願いなんだ。だから、僕には君が必要なんだ。君を経過することでしか、僕は僕に行き着けない、君に並ぶことが出来ない。

絶望の恋人よ、
「希望」と「絶望」なんて、実は同じようなものだ。どちらも存在はしない。全てはそれを認識する僕の問題だ。君は僕が選んで創り上げたものだ。

僕の願望する恋人よ、
痛いくらいに、僕は君が必要なんだ。
愛しい恋人よ、
「もうすぐだから」と、君の声を聞いた気がしたよ。』



 もうすぐのはずだった。

 手紙ばかりが増えた。
万年床の上で寝返りを打てばガサガサと音が立つ。部屋のいたるところ、畳すら見えないほど床一面、本棚、テレビの上、押入れの奥、バスルーム、炬燵の中まで、あらゆるところに手紙は繁殖していた。

 インターホンが鳴る。
 手紙の海を掻き分けるように玄関に行き、ドアを開ける。
 急に気圧が変わったように、部屋の空気がうねる。手紙はバサバサと音を立てながら、突風にのったように玄関からドアの外へ飛び出してゆく。
 嵐のように渦をまいて便箋や茶封筒が吹き飛んでいったあと、ドアの外に立っていたのは、彼女だった。

 彼女は何かを喋っているが、それが私に関係のあることなのか、私にはよく理解が出来なかった。すべては空々しく、幕一枚隔てたようにしか感じられなかった。それでも彼女は確かに彼女で、そしてどうやら泣いているようだった。
 青ざめているように見えるが相変わらず丸みを帯びた頬に止めどなく流れる涙に、少し尖り気味になってぼそぼそと言葉を吐き出すがすぐにまた噤む唇に、私は触れてみようかと思った。しかし私は結局そこに手を伸ばさずに、泣き話す彼女をただ見ていた。
 窓を閉め切っているはずなのに何処からか差し込んでいた薄明かりもやがてなくなり、彼女の姿も見えなくなった。それでも時折鼻を啜る音が聞こえて、彼女はまだそこにいるらしかった。私は彼女がいるらしい辺りの暗闇をぼんやり眺め続けた。

 泣き止んだらしい彼女が、電気をつけていいかと聞いてきた。私は、点かないとだけ答えて、それが数ヶ月ぶりに彼女に発した最初の言葉だった。
「……なんで?」
「止まったから」
「いままで、どうしてたの?」
「どうもしないよ」
 彼女は暫く黙った後、手探りで玄関まで行き、ドアを開けて出て行った。それからまた少し経つと、ドアが開いて彼女が懐中電灯を持って入ってきた。懐中電灯に照らされた炬燵の上にはもう手紙の山はなかったが雑然としており、彼女はそれを少し整えて、そこにキャンドルを置いて百円ライターで火を点けた。ぼんやりとした明かりが部屋を包む。
「部屋、汚い」
「そうかな」
「とりあえず、これで電気の代わり」
「ああ、うん」
「ねぇ、お風呂、ちゃんと入ってる?」
「止まったから」
「……電気とかガスとか、請求書、捨ててないよね」
「さぁ、多分あるんじゃない」
「明日、探して払うから」
「そう」
 彼女は押入れから予備の毛布を引っ張り出して簡単な寝床をしつらえ、横になった。私は敷きっぱなしの布団の上に座って、こちらに背中を向けている彼女を眺めていた。彼女は寝息を立て始め、私もいつしか眠っていた。



『愛しい恋人よ、
頼むから、ずっと僕のそばにいてくれよ。

僕がどれだけ下らない人間でも、満足に日々を送る力もなくても、僕に語りかけてくれ。
意思の薄弱さや、幼稚な自我に囚われて、君を見失っても、頼むから君だけは見捨てないでくれ。
無責任な僕の態度や言葉が君さえも傷つけて、それでも僕を見ていてくれよ。

そして恋人よ、
そんな君が架空のものだってことを、誰より君が僕に分からせてくれ。

僕は永遠に君を愛しているよ。』



 電気やガス、水道、最低限の部屋の機能は回復したが、そのことに意味があったのは最初の数日間くらいだった。もともと何もなかった部屋なので、彼女が一日かけて掃除して、溜まったゴミもまとめて出してしまうと、簡単に片付いた。私はそれを黙って見ていた。
 彼女はもう感情をむき出しにして泣いたりはしなかったが、代わりにやり場のない感情を平坦な言葉に込めるように吐き出した。返答を求められれば「ああ」とか「うん」などと生返事くらいはしたし、風呂に入れと言われれば素直に従ったが、結局、私にはどれも意味のないことだった。「怒ってるの」と尋ねられても、答えようがない。私には彼女への言葉がなかった。そんな私に何を言っても無駄だと気づいたのか、あるいは彼女の言葉ももうなくなったのか、彼女も何も言わなくなった。
 それでも彼女はいつまでも帰らず、私の部屋に居続けた。一日中膝を抱えてうずくまり、時折思い出したように私の顔を眺め、また下を向く。二日に一度くらいの割合で彼女が食料や日用品の買出だしに行ったが、何かに追い立てられるようにすぐ戻ってきた。外出と言えばそれくらいで、彼女がそれに私を誘うこともなかったから、私はずっと部屋から出なかった。

 している最中も、またその合間にも、彼女と私は会話らしい会話をしなかった。
 例えば友人とどのくらいの頻度で、どのような体位で、どれだけの回数こうした行為に及んだのかとか、そんなことを口にして彼女の羞恥を煽り責め立てたりすれば、自身の復讐心やネガティブな欲望を満たすことになるのだろうか。彼女は私の友人と別れ、心の居場所と平穏を失くし、やけくそ半分でナンパもののAVに出演して中途半端なタトゥーの入った男に暴力的な口腔性愛や中出しを要求されたのかもしれない。そんなここ数ヶ月の彼女の物語がよぎった。それを突き詰めることは私の快感に繋がるだろうか。
 だがそんな考えはふと頭を過ぎっただけで、すぐに消える。私には彼女に伝えるべき言葉が何もなかった。もう私の物語は彼女には交わらないのだ。
 それでも、私の身体だけは彼女と交わり続けた。昼も夜もない生活は、私にとってもはや日常だったが、彼女にしても時間を計る目安はその回数だけだろう。終われば、少し時間を置いてまた始める。その繰り返しだ。単調にダラダラと、しかし際限なく、それは続いた。

 始めに手を伸ばしたのは、私の方からだったのだろうか。どちらからとでもなく始まったような気もする。他にすることがなかったのだろう。それきり彼女も買出しにも出かけなくなり、眠ったりトイレに行ったりするほかは、際限なく交わった。
 それからもう幾日経ったのだか分からない。



『拝啓
恋人よ


君の匂いを覚えている。
いまでも君の匂いを嗅ぐときがあるよ。風のなかに混じっている、あれは何の匂いなのだろうか。そのたびに君を感じるよ。

君の身体を覚えている。
君の寝息が横にあったあのときに、どうして僕は確かめなかったのだろう。柔らかいその身体が、本当にそこに在るものなのかを。

愛しい恋人よ、
僕は君を確かめている。』



 雨戸を下ろし、窓には分厚い遮光カーテンが引かれている。腹が減れば、冷蔵庫を開けて食べられるものを探し、それぞれが勝手なタイミングで食べる。薄暗い部屋で、あるのは身体だけだった。失くした言葉の代わりに、身体が交わるのだろうか。だが、その交わりのなかで、私にはその身体でさえ本当にあるものなのか分からなくなる。それを確認するように、また彼女に触れるのだろうか。彼女の方もそうした気分でいたのかも知れないが、本当のところは分からない。結局、私にはなにも分からない。
 分からないといえば、彼女が本当に彼女なのかも分からなかった。以前に彼女が私の恋人で、恒常的にこうした関係を結んでいたときの姿と、いまこうしている彼女が上手く結びつかないのだ。彼女の肌が懐かしいとは思わなかったし、だがその匂いは全く知らないものでもない。私は、よく知っているようで全く知らないような、そんな彼女を抱いている。
 彼女は彼女でない顔をするときがある。それは比喩的な意味だけでなく、例えば終わった後の気だるさのなかにいる表情が、彼女と付き合うずっと前に付き合っていた女の顔に変わっており、一度目を閉じてまた見るとまた彼女の顔に戻っている。さっきトイレから戻ってきたときは、私に睡眠薬をくれた女友達の顔をしていたし、そのすぐ後に私の上にあった顔は全く知らない女の顔になっていた。
 確かなのは、こうしている彼女が女だから交わっているわけで、ということは私は男だということ、それだけなのかもしれない。もうそれで良かった。そして彼女という女がなんなのかは、やはり私には分からない。

 買出しに行っていないので、もう食べられるものは殆どなかった。冷蔵庫の野菜室に、しなびかけた人参が一本あった。人参一本だけを調理するのも面倒だし、する気もなかった。そのまま齧ってみようかと思う。
 私は確かに空腹なのだが、それはそこまでの切実さをもたない。荒んだ生活で胃が小さくなっているのだろうか。空腹とそれを満たすというプロセスに伴なわれるはずの満足感や確かな身体感覚が感じられない。それは彼女とのセックスでもそうなのだ。確かに粘膜の快感や擦れ過ぎて痛くなった皮膚などの感覚はあるのだが、薄皮一枚隔てたように、または記憶やイメージのなかで感じるリアルさのように、それはぼやけてどこかが不確かなものだった。
 冷蔵庫を開けたまま、人参を手に佇んでいると、後ろに彼女が立っていて声をかけてくる。「……それ、どうするの」意味が通る言葉は久しぶりだった。「ねぇ……」上目遣いで私と人参を見つめる彼女は、また別の女の顔をしていた。



『生きている恋人よ、
眠っている君の呼吸を塞いだら、いつしか君の身体は動きを止めるのだろうか。生命ある君の匂いも柔らかさも消えてしまい、君は一個の物となるのだろうか。

女である恋人よ、
確かめようとする僕に、君は冷笑なのか誘惑の微笑なのか分からない顔を向けるのだろう

愛しい恋人よ、
すべては下らない冗談で、笑い話で終わる。けれども「現実」というものがもしあったとしたら、その現実はそんな姿に見えるだろう。』



 私は過度の酷使で萎びてしまった私の代わりに、萎びかけた人参を彼女に挿入しようとしている。
 人参が私の代用物なのか、私が人参の代用物だったのか。とにかく彼女のような顔をした女が、それを受け入れようと目の前で横たわっている。萎びてはいるが、サイズ的には私を上回っている。私は貧相な裸で、人参を片手に、足を広げた裸の女に組みかかる。
 グチャグチャにかき回して、破壊してやろう。この女が望んでいるのもそれなのだ。人参は私のように簡単には柔らかくならない。折れるだけだ。折れたら、その破片が女の内側から女を傷つけるだろう。
「足、もっと広げなよ」私は興奮を覚えた。女は期待に濡れて待っている。

「ぶおっ」と大きな音がした。
 何の音だか分からずにいると、もう一度鳴る。
「ぶおっ、ぶっ、ぶっ、ぶう、……」と更に続く。

 彼女が上半身を起こし、驚いた顔で私を見つめる。私の腸は激しく律動し、それは裸の腹部をはっきりと分かるほど痙攣させていた。腸がポンプのように空気を送り出し続け、連続する音は小さくなるどころか大きくなっていった。

「なに、それ? ……なんで、そんな、こんな時に、真面目な顔して……まだ鳴って……」
 突然の自分の放屁に当惑する私を見て、彼女が吹き出した。ここに彼女が来てから初めて見る、だから数ヶ月ぶりに目にする彼女の笑顔だった。
 彼女の笑い声に合わせるように、私の放屁はまだ続いた。それが可笑しいらしく、彼女は更に笑う。いつしか私も笑っていた。私も暫く笑っていなかったので、顔の筋肉が変に強張って、それもまた妙に可笑しかった。二つの笑い声と放屁のアンサンブルが随分長い時間続いた。

 笑い声で腸の空気まで抜けたのか、ようやく放屁が収まった。途中からは彼女が回数をカウントしては更に笑い転げていた。
 私の屁が収まってしばらくすると、いままで裸でいるのが普通だったのに、彼女は「あっち向いてて」と私に命じて服を着た。私も脱ぎ散らかしていた服を集めて、比較的汚れていないものを選んで身に着ける。
「お腹空いたね」
 思い出したように彼女が言う。
「……その人参でスープでも作ろうか」
「ちょっと、何言ってんの。やめてよ」
「だって、他になんもないよ」
「いいよ、わたし何か買ってくる」
「じゃあ、そうして」
「料理、よく作ってくれたよね」
「最近は全然してない」
「じゃあ、あんまり期待できないか。いいよ、わたしも一緒に作るから」
 それから、彼女はどこか遠くを見るような目をして言った。
「桜、もう咲いてるのかな」