もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

恋文地獄篇7~二度目の春・後編~

『拝啓
愛しい恋人よ


桜は散ってしまうから美しい、と人は言う。
消えてしまうと分かっている儚いものを、人はどうして愛するのだろうか。
桜は散ってしまい、そしてまた咲くのだ、それでいいじゃないか、と君は言う。
でも、やっぱり僕には耐えられそうにない。

散ってしまったあとに、君はまたやって来る。
独りで、夜中に、堂々巡りの煩悶に、終わりかけた僕にこそ、君が来て欲しいのに。そんなときに、いつも君はいない。

待ち焦がれた奇跡のようではなく、君は君でないような姿で、当たり前の顔をして、繰り返されるのにその度に新しい季節のように、君はやって来る。
君はいつも遅れてやって来る。

気づくのは、いつもそれが散ってしまってからだ。』



「すぐ戻ってくるから、待ってて……」
 身支度を終えて、彼女が玄関で靴を履く。私はそれを見送る。
 彼女は私に背を向け、ドアノブに手を掛けたところで動かなくなった。ゼンマイが切れたような、こちらに何かしらの不安を感じさせるような、不自然に長い静止だった。

 しばらくして、彼女はゆっくりと振り返った。
「君は、相変わらずだね」
 彼女は私の眼をじっと見つめて言った。
「相変わらず頭でっかちで、つまらないことばかり考えてるし、妄想も支離滅裂なのに中途半端で。そんなんじゃ……」
 彼女はそこで言葉を置いて、口元に笑みを浮かべた。それは私の知っている彼女の顔ではなかった。 
「わたしは、もう君の前にいないのに」
 その言葉を発した彼女は、もはや彼女ではなかった。彼女ではないが、よく知っている女だった。
 そして、その女は「じゃあね……」と少し鼻にかかったような声で、曖昧な笑顔を残して、ドアの外に出て行った。

 あの女だ。
 あれは、あの女に間違いない。
 私がずっと待っていたものが、ついに来たのだ。

 待っていたのは、春でも新生でも啓示でもないし、亡くした恋の再生でもなかった。
 あの女だ。
 ずっと待っていたのだ。
 そして、また去っていった。
 彼女の顔をしていたあの女は、もうここには戻ってこないだろう。
 いや、彼女があの女で、あの女が彼女だったのか。どちらにしても、また私を残して消えていく。
 ふざけるな。

 私は外へ駆け出した。
 今度こそあの女に追いつくのだ。



『恋人よ、

散ってしまうものならば、いっそ桜の木を燃やしてしまえばいい。
いたずらに僕を狂わせては散ってしまう、そんな花など、二度と見たくはない。
桜を殺して、儚さを永遠にしてしまえばいい。
それでも咲くというのなら、僕は何度でもそれを殺そう。

散ってゆく花のような君、
消え続ける恋人よ、
もうすぐ僕は君に追いつくだろう。
散り行く君に、いまならば間に合う気がする。

愛しい恋人よ、
やはり、僕は君を殺そう。』



 玄関から飛び出ると、外は春の朝だった。明け方の光は眩しかった。目を凝らして私は女を捜す。
 マンションの敷地から路地に出ると、その道のいたるところに私の死骸があった。あるものは腹を押さえ、苦痛に歪んだ表情で事切れており、またあるものは高いところから飛び降りたように砕け、ひしゃげていた。すべて私の死体だった。あらゆる原因で死に至った私の身体が、私の行く手に累々と連なっていた。
 そのどれか一つに、あの女が寄り添っていないだろうか。走りながら確認する。いなかった。こんなところに、あの女がいるはずがない。
 
 商店街の角を曲がると、まだシャッターが閉まっている店の前に辻占いがいる。
「待ちなさい」と声をかけられて、私は立ち止まる。聞いたことのあるような、ないような声だ。
「……あなたは、低級な動物霊に取り憑かれている」
 占い師は頭からすっぽりとベールを被っており、隙間から僅かに覗く目が私をじっと見据える。
「すぐに払った方がいい」
 払おうが払うまいが、私には同じことだ。
「そんなことは言うものではない。それはもう沢山の数が憑いてるから」
 ならば、そいつらを集めて動物園を開いてやろう。私はそこの園長だ。愛くるしい動物に釣られて、あの女がやってくるかもしれない。あるいはその動物のどれかが、あの女の化身なのだ。
「憑いているものは、あなたの考えるものに関係はあるが、ちょっと違うものだ。そんなことばっか考えてるから憑かれる。害を成すものなので、払ったほうがいいと思う」
 害を成す、ということはそれに力があるということだ。私はそれを式神として使役し、あの女を捕らえる役に立てよう。
「いや、無理。だって君の後ろにいる動物、みんな死にかけてるもん。元気ないの。それでも憑いてるの。君さ、終わってるよ」
 だが死に瀕した猛獣は最後の牙をむき、窮鼠猫を噛み、私の憂鬱が世界を変えるだろう。ところでお前、妙に馴れ馴れしいな。
「いやいや、君の言うそれはさ、牙を失くした子羊、飛べないで道に迷う狼、最初から噛み付く牙なんてないし、もともと羽根もないのに自分を勘違いしてるんだって」
 私は激情に駆られ、この失敬極まりない三文スピリチュアルを殴りつけようとしたが、そこで思い当たった。お前こそ、あの女なのではないか。誤魔化されるものか。
 私は占い師の顔を覆うベールを剥ぎ取った。
 しかし、そこに現れたのは、なんと私自身の顔だった。
「はっずれー。残念でした」
 私は妙に嬉しそうに言う。私はそんな私に唾を吐きかけ、その場を去る。こんなことをしている場合ではないのだ。

 私が駆けているここは、いつか通り過ぎた場所であったり、またはそんな気がする場所だ。私はもつれる足を引きずって駆ける。そして、その先にはあの女がいた。女は背を向けて遠ざかり、ときおりこちらを振り返って見せる。冷えた一瞥にも見えたし、全てを受け入れる表情にも見える、女の顔だ。曲がり角を曲がる女に近道をして追いつこうとすると、曲がったはずの女がそこにいる。結局は追いつけずに、遠ざかってゆく。試しに振り返ってみると、前にいたはずの女がそこにいる。どちらを向いてもそこにあの女がいて、前も後ろもない。
 私は走るのを止めて、目を瞑って、ゆっくりと歩いた。それが正しいように思われた。



『恋人よ

走ろうが、歩こうが、立ち止まろうが、
見まいと見ようが、聞くまいと聞こうが、
すべては同じことだ。

だから、好きなようにすればいい。
僕も好きなようにしてきた。

僕はずっと待っていた。
それは最初から終わっていて、そして既に始まっている。

ああ、もうすぐだ。

恋人よ、
僕はやっと君に追いつけるのだ。』



 風に乗って軽くて柔らかいものが飛んできて、それが頬に当たる。私は目を開けた。
 淡い桃色が辺りを包んでいた。桜の木が、土手に沿って並んでいる。ときおり吹く風に、花びらを惜しげもなく散らす。以前にも来たことがある場所だった。ただ、これほど桜が咲き誇っているのに、当然いるはずの浮かれ騒ぐ花見客の姿がない。花見客どころか、辺りに人の気配がない。
 桜並木と、その道を歩く私だけがあった。そして、その道の先、一際大きく満開の桜の木の下に、あの女が立っている。

 ようやく、追いついたようだ。
 どれだけ私はこの瞬間を待ち望んだだろう。その為にどれほどのものを傷つけ、犠牲にし、また私自身を無為としたのだろう。だが、その原因を前にして、私には何の言葉も出て来そうにない。それでも私はあの女に向かって歩く。



『随分とわけの分からないところに来てしまった。
けれども別に後悔する気はない。
すべては望んだことなんだ。

恋人よ、
不可知の果てにいる、僕の恋人よ、
こんなものではまだ足りないよ。
もっと遠くまで、誰も見たことがないところまで、陳腐な想像力の彼方まで、僕を運び去ってしまってくれ。

愛しい恋人よ、
けして追いつけない僕の恋人よ、
僕を連れて行ってくれよ、取り返しのつかないところまで』




 女に触れた。おずおずと手を伸ばし、それから抱きすくめた。顔を見るのも見られるのも怖かった。女はひどく柔らかく、間近で見るうなじの肌は白過ぎて、不安を覚えた。抱きしめる腕に力を込めた。たまらなく懐かしい感触と匂いがした。それから、どうしてよいのか分からなくなった。

 気づけば私の手は女の首に掛かっており、立ったままの女にもたれるようにして、力一杯にその首を絞めていた。女の喉が、私の手の中で潰れていくのが分かった。
 私は手の力を更に入れて、それからやっと顔を上げて女を見た。
 気道が潰されているはずなのに、呼吸を求めて苦しく喘いでいるどころか、顔色も変えていなかった。その目はまっすぐに私の目を覗きこみ、だがそこに何の感情も見えない。
「なんでだよ……」ようやく出た私の言葉は、急に吹きはじめた風に流され、まるで他人の声のように響く。力を込めすぎた手は震え、女の喉の感触がかえって不確かなものになっていた。

 サァという音がして、目の前の女の姿が白いものに遮られた。淡すぎる色の桜で、花びらの色は桜色というよりは白に近かった。
 花びらは一斉に散りだしたような勢いで風に舞う。視界が白く閉ざされ、それが随分と長く続いた。

 ようやく風が弱まってくると、白い桜吹雪の隙間に、女が見えた。
 私など見ていないような目で私を見つめながら、女が消えてゆく。また、あの女がいなくなるのだ。そんな予感で胸が詰まった。
「いかないでくれ」私は叫んでいた。



『恋人よ、
いかないでくれ、という自分の言葉で夢から覚めたときでも、いつも君はいた。

恋人よ、
そして果てしなく消え続ける君と同じように、僕もまた消え続けている。

恋人よ、
ようやく僕は君を見つけた。』



 白い吹雪が過ぎ去ってしまうと、やはりあの女も消えていた。

 見回してみれば、そこは確かに桜並木だったが、満開の桜など咲いてはいなかった。花びらは散りつくし、すっかり葉桜になっている。

 私はようやく気づいた。桜吹雪のように舞っていたのは、細かく破られた無数の便箋だった。淡い桜の花びらは、千切れてバラバラになったあの手紙だったのだ。
 かつては誰かに何かを伝えようとした手紙が、独りよがりで剥き出しにされた感情が、いまは僅かに単語やそれ以前のただの文字となって、濁った川面や遊歩道のコンクリートに落ち、桜の木の根元の地面に醜くこびりついている。

 私には、それを踏みにじって否定することも、一つ一つ拾い集めてつなげてみることも必要ない。私にはその手紙が分かるのだ。それは、私のものだったのだから。
 あなたが私であるように、あなたは彼であり、またそうであるように、私は彼であり、つまるところ我々はみんな一緒だ。



『恋人よ、

もはや君は僕じゃないか。その区別はもはや無用だ。
そして君は他の誰かのなかにも遍く存在する。つまりは他の誰かだって、僕に他ならない。
この言葉は、無様で独りよがりな遠吠えは、誰に言おうが、僕にしか聞こえなかろうが、いつだって君に届いている。
なんだって一緒だ。

だから恋人よ、
僕は僕を失う。君を失うように。ざまぁみろ』



 それは、やはり私の言葉だ。
 永遠の恋人よ、私は私自身をすでに失っている。
 蛇足めいたエピローグと、陳腐なプロローグが私を待っている。ざまぁ味噌漬。