もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

むしし

 紫の竜が恐ろしいほどに強い。
 まぁ奴は裏ボスなのだ、強くて当たり前かもしれない。でも、それにしたって、ちょっと理不尽なくらいの強さではないか。気を許せば、つうか張り詰めていたところで、ブレスの後の二回攻撃とか痛恨の一撃だかでこちらのパーティはポコポコ死ぬ。回復役の奴が死んでは完全復活の呪文も唱えられない。主人公の覚えている復活の呪文は大抵失敗する。
『しかし、白髪キザ男は蘇らなかった!』
 ふざけんじゃねぇ、成功確率二分の一って嘘なんじゃねぇのか! 
 ここまで来るのに、青とか黒とか赤とか白とかの竜を倒さねばならなかった。最強の紫と対峙したときには、魔法使いの魔力はほぼ使い果たされていて、仕方ないから『投げキッス』とかいうふざけた特技を使ってみると、やはり通じない。そして紫竜の気合溜めの後の噛みつき攻撃炸裂。
『痛恨の一撃! 乳ばかりデカイ娘はしんでしまった!』
 勝てっこねぇ! コントローラーを放り投げる。間もなく全滅だ。しかし、しばらくすれば所持金を半分にされて全員生き返ったパーティは再び憎い竜のもとへ向かうのだ。
 竜を倒せ、竜を。決して倒せない竜を。

「おい、いい加減にしろよ。そんなゲームばっかやって、何になんだよ」
 いやいや、あの強化爬虫類倒せたら、そりゃ凄いことだよ。このゲーム完全クリアだ。まぁ、確かにそのことに意味なんてないさ。しかもだぜ、実はあの紫倒してもさ、経験値も御褒美のアイテムも、なにも貰えないんだぜ。ただ「驚いた。なんて凄い奴らだ」とか誉めてもらえるだけなんだよ。おまけに俺、その画面、既に動画サイトで見てたりして。だから、これ、二重の意味で意味無いわけ。これはもう、逆になんか意味ありそうだろ?
「あー、もうコスゲリョウタのそういうのが本気で面倒だぜ!」
 何を言ってやがる。全部、お前のせいじゃないか。これは俺の喪の作業なんだよ。俺だってやりたくてやっている訳じゃないんだよ。
「そうやって、また俺をネタにして好き勝手やりやがって!」
 そりゃそうだ。君は随分と不謹慎な奴だった。その不謹慎のなかに何がしかの真実を感じさせるような、ある意味で常に誠実な奴だった。と、俺は思うんだよ。そして俺は自分の誠実さを示すには露悪的にならなくては気が済まない。だから君をネタにしてやろう。どこまでも不謹慎に、いつまでもしつこく、お前を弄んでやろうじゃないか。それが誠実なのだよ。お前だったら、分かるだろ。分かんなくても、お前は甘んじて俺の好き勝手を受け入れなくてはならないのだ。
「うわ、もう知らねぇよ!」
 知らねぇだろうよ。お前は何も言えないさ。死人に口なし、とは正にこのことじゃないか。まったく、笑っちゃうぜ。

 まだ四十九日を過ぎていない頃だったから、もしかしすると魂はその辺をウヨウヨと彷徨って、僕のところにもやって来ていたのかも知れない。もっとも、来ていたところで僕には分からなかっただろう。僕はひたすらコントローラーを握りテレビ画面に向かいながら、あいつに一方的に話しかけ、そして自分でそれに答えていた。
 本当にあいつの魂とかそんなようなものが、僕の部屋に来ていたとしたら、どう思っただろうか。きっと呆れて、こんな風に言ったんじゃないだろうか。あの、妙に甲高い声で。
「おい、コスゲリョウタ、いい加減にしろよ!」
 なんだよ、僕のイメージのあいつと別に変わらないじゃないか。まぁ、そりゃそうか。これもイメージなんだから。

 導入が変に長くなったが、これは追悼文だ。
 そして、なんと導入部から大した展開もないまま終わる可能性が濃厚なのだが、これはあくまで追悼文なんだよ。
 一年前に、親しい友達が死んだ。
 いつのまにか四十九日が過ぎて、なんともう一周忌だ。
 追悼文にしては遅すぎるし、大体誰が読むんだという感じだけれど、いいんだよ、僕が書きたいんだから。
 辞書で調べたら、追悼というのは「死者の生前の事を思い出して、その死を悲しむこと」とある。
 さて、しかし、いま僕が思い出しているのは、生前のあいつなのか、死んだ後のあいつなのか。悲しい、というよりはまずは驚いてしまって、色々考えたり、または考えたふりをしているうちに、ぐるりと回って、分からなくなった。
 分からなくなったのだから、分からないままで書いていこうと思う。そうすると、やはり、いわゆる「追悼文」とは違うものになってゆく気がするが、まぁ、いいや。

 いま、この文章を書くということは、親しい友達の「死」を虚構化してしまう、ということになるだろう。それは道徳的に、かなりの確率で間違っている気がする。でも、別にいいじゃねえか。書きたいんだから。
 もともと僕は彼のことを散々ネタにしてきた。彼が身を持って体験したストレンジワールドや、彼自身の異様な言動と存在感は、僕にとっては魅力的な異世界で、女の子を笑わせるときなんかには鉄板のネタに仕立て上げられた。ネタ提供者となっていることに関して、彼はあまりいい顔はしなかったが、本気で嫌がってるわけでもなさそうだった。彼は淡々と自分の道を突き進み、そして定期的にその世界の出来事を報告してくれたのだ。
「……また、変なネタ作っちゃったぜ。どうしよう」
 最後の電話でも、そう言っていた。いつになく気弱な声が少し気になったが、ろくに話を聞かずに電話を切ってしまった。僕はちょうど花見で飲んだくれていたのだ。そのうちに改めてかけ直すつもりだった。
 けれど、そのあとすぐにやつは死んでしまった。
「変なネタ」がなんだったのか、なんとなく察しがつくけれど、その詳細やなにかは、もう聞けない。本人の口から直接聞いて、そして思う存分にからかい倒してやりたかった。
 お棺から覗いた死顔は、あまりにも安らかだったけれど、やはり死んだ人間の顔だった。それを見ながら、僕はわざとらしく不謹慎な冗談を吐いたが、死んでいる友達はそれに突っ込みを入れてはこなかった。
 いまだって、言ってやりたいことはある。あんなに穏やかな死顔で、ある日に突然とか、ずっこくないか? みんな、もっと無様に年取って、苦しんで死んでいくんだぜ。ずるいよな。あとさ、お前が死んでから、マジでろくな事ないんだけどさ、これ、お前のせいじゃないだろうな? 祟ったりしてないよね? だとしたら、ふざけんじゃねぇよ。墓、掘り返すからな。
「好き勝手なこと言うんじゃねぇよ!」
 死んだ友達の声が聞こえる。クスリでもやれば、姿だって見えるかもしれないが、あくまでそれは僕のイメージのあいつなのだ。僕の想定範囲からは決してはみ出さない。それは、もうあいつでない。
 つまらない。あいつが死んで、とてもつまらない。
 親しい人間が死んでいなくなるというのは、こんなことなんだろうと、いま思う。なんか、全くまとまってないけど。
 とにかく、僕は友達の死を悼んでいる。
 そして、友達の死に関したオナニー作文を、せっせと書いているのだ。
 まぁ、だから、これは、あくまで追悼文なんだぜ。

 あいつが死んでから、僕はどうしていたか。
『決して倒せない竜』を倒そうとしていた。
 ここで、やっと導入部に繋がるわけだけど、まぁ、簡単に言えばゲームばっかりしてました、ということだ。
 あのときやっていたゲームは、もうとっくに投げ出してしまった。紫の竜は倒せず仕舞いだった。しかし、『倒せない竜』は至るところに存在するのだ。王国の地下に広がる迷宮の最深部だったり、天高くそびえる塔の上にもいるし、忘れられた銀河の海に浮かんでいたり、その『世界』の数だけ『倒せない竜』は存在する。苦難の旅の末に竜を見事倒しても、セーブデータを消去すれば、竜は何事もなかったようにその世界を支配している。その世界に見切りをつけて、次の世界に行けばまた違う竜がいる。キリがない。一度『竜が倒せない』ことを意識してしまえば、それから竜は永遠に倒せなくなる。世界自体が、竜に支配されることで成り立っているからだ。だからどこにいっても、倒せない竜が必ずいるはずだ。もう、みんな気づいてるのだ。竜を倒すことに意味はない。けれど、倒さずにはいられない。
 ゲーム機の電源を切っても、竜のいる世界は広がっている。中央線快速で四谷まで行って総武線に乗り換える世界にも、竜はいる。どこかにいる。絶対いる。支配されているんだ。だから息苦しくて生き苦しい。けれど、その竜は倒せない。
「竜を倒せ、竜を」
 それでも、この命令が聞こえてくる。どっからだよ。

 ……あれあれ、ちょっと待てよ。「俺ってさ、いわゆるオタクっていうのとは、ちょっと違うんだよなー」とか言ってたわりに、簡単にゲーム脳になってないか。厨臭い、とも言えるよな。でもさ、ほら、これが時代の自然な雰囲気じゃねーか。相対的な世界認識デフォなのが良心的スタンダートだろうが。せいぜい生き抜こうぜ、ゲーム的リアリズムのなかで、みたいなさ。まぁ、こういうことはオタク寄り知識人とかが盛んに書いているから、いまさら俺が言ったって仕方ないよね。では、じゃあ俺はなにが言いたいのか? ……つまり生死すらゲーム的リアリズムのなかに組み込まれていくと、ある意味それが救いになってしまうような。仏教的無常観だったり涅槃の境地が、身体感覚の希薄な時代精神によって獲得されてしまうっていうかなんていうか。だからほら、虚構の時代の果てにさ、オウム以降の我々のさ……つうかあれか、宗教とかオカルトってのもオタクの必須科目だし、さらに仏教寄りなんて、まさしく俺は現代日本の青年だな。ああ、つまんねーな。でも、そう思ってしまうのだから仕方ねぇ。酒を飲めば最近の俺の口からはインスタントなブッディズムがこぼれだすのだ。「君、君、それはあれだよ、輪廻だよ因果だよ。目指すは涅槃であるぞよ。大変革の時代ぞよ。天上に咲く蓮の花は誰の目にも美しく、たまには蓮っ葉な女を無理やり抱いてみたい、ぞよ」

 ……ああ、つまんねーな。
 そうだよ、こんな思考は結局同じとこをグルグル回って、回り続けることに意義があるのだけどさ、まぁ、自分で厭きるんだよ。つまんねーんだよ。でも、他に行きたい場所なんてそう見つかりゃしねーんだよ。ドツボちゃんに嵌っちゃってんだよ。自分が恥ずかしいよ。穴があったら、挿入してみたいよ。
 こんなときは、お前に電話するのが丁度よかったんだ。ちゃんとしっかり「変な人」をやってるお前の話を聞いてると、半端な俺はかえって癒されたよ。笑ってるうちに、脳味噌が洗われたよ。まぁ、だからといって、前向きに明日に向かう気になるわけじゃなかったけどさ。そりゃそうか。それは俺の問題だ。でも、やっぱりお前の話がまだ聞きたいよ。
 こうやって語りかけるように書いてると、追悼文らしいよな。どうだ?
「……もう、コスゲリョウタの好きにしてくれよ」
 ああ、好きにするよ。もうちょっと続けるよ。自己陶酔型の語りかけ形式。ところでさ、お前はなんで俺に突っかかるときは絶対フルネームで呼んでくるんだ?

「……おっぱいに青い血管浮いてる女の人がいいな」
 これは、いま急に思い出したんだけど、お前の台詞だよ。どんな女の子が好みなんだ? って聞いたら、いきなりこう答えたよな。意味分かんねーよ。なんでいきなりそんな局所的で、さらにマニアックなんだよ。ところでさ、奇跡的に(ってお前のお父さんが言ってたんだぜ)出来たお前の彼女、葬式で見かけたよ。……血管、浮いてたか? 
 俺はさ、前も言ったけど、やっぱり巨乳が好きだよ。いや、やっぱいいよな、おっぱい。血管とかはよく分かんないけど。
 巨乳か。
 ああ、巨乳かあ。
 れいな、
 ああ、れいなー、戻ってきてくれー。俺が悪かったー。
 なに言ってんだ、俺は。まぁ、これ書いてるの深夜なんだよ。そろそろ酔っ払ってきたんだよ。参ったよ。最近は健康志向だから、もう眠いんだよ。酒だって控えてたんだよ。
 ……ああ、若くしてポックリ死んでしまった魂よ、ポックリさん、ポックリさん、答えてください。悩める僕は、どう人生に立ち向かったらいいでしょうか。ポックリさん、ポックリさん……。
「俺に聞かないでくれよ」
 きっとお前はそう言うな。そして、気色悪い虫でも採りにどっかへ行ってしまうだろう。勝手に、ふらふらと、いきなり。

 三途の川のようなものがあったとして、きっとその対岸に、珍しい種類のカマドウマでもいたんだろう。深く考えないで、お前はその境界線を越えてったんじゃないのか。山で出くわした毒蛇を、躊躇いもせずに手づかみして指を噛まれるようなお前だから、そのくらいはするだろう。どうもね、死顔見てたら、そんな気がしたよ。
 だからさ、なんか、置いてかれたような気がするんだよ。
 別に、俺は死にたいわけじゃないぜ。「消えたい」と「死にたい」は全然違う話だぜ。ただ、ほら、そういう感覚を共有できた奴が先に消えちまったら、やっぱり置いていかれたような気がするだろ。
 言い換えるならさ、さっきの『倒せない竜』を相手に、一緒に戦ってきたパーティのメンバーが離脱しちゃったっていうかさ。
 おお、話が戻った。ちょっと強引だったけど。

 そう、いまも『倒せない竜』との戦いは続いてるわけだ。
 最近の俺がやるゲームは、ハック&スラッシュ系だったり、ウィズライクの迷宮探索型だったり、まぁ色々だけど、いくつか共通点があるんだよ。主人公たちにあんまりキャラクター性がついてなくて、ある程度のキャラメイクが許されるやつで、さらにストーリーにも想像の余地が残されてるようなやつね。
 そうすると、やっぱり自分ぽいキャラとか友達ぽいキャラ作るだろう。そんでそのメンバーで冒険するわけだろう。まぁ、かなり痛い楽しみ方だけど、要は虚構と現実をさ、分かりやすくゴッチャにしてみたかったりさ。どっちも、竜と戦ってるわけだからさ。
 勿論、「スギヤマジュン」て名前使って、かなりのキャラを作ったよな。変な装備の狩人とか、挙動不審のロボットとか、熱い吐息で攻撃するトカゲ人間とかさ。やっぱり、お前は終わんない竜退治には必要不可欠なメンバーだよ。あー、ゲーム脳ゲーム脳。痛い痛い。ふはは。

 竜の正体は、例えば分裂した創造神の暗黒面だったり、死ぬとか病気とか大切なものを奪っていく時間だとか、二日酔いとか住民税とか浮気性の女房とか満員電車とか、あとは結局は自分自身だったりとか、そのとき、その世界によって色々だろう。
 竜とは一人で戦わなきゃなんないときもあるけれど、やっぱりパーティを組んだりするよね。パーティのメンバーは「スギヤマジュン」だったり、駄目ニート仲間だったり、アングラ演劇おじさんだったり、イヤフォンからの音楽だったり、クレイアニメーションみたいな表情の女の子だったり、ボブディランだったり、一冊の本だったり、それも色々だ。まぁ、勝手に自分の頭のなかで組むだけだから、勘違いが前提だけど。でもほら、ちょっと心を開けば、なんとなくそこはルイーダの酒場じゃないか。そんくらいの連帯は持ったっていいよな。出会いと別れの酒場なんだしさ、パーティ編成なんて自由だよな。裏切られたり裏切ったりもするけど、そんな酒の苦さもいいかもね。所詮はゲームなんだから。すっげぇリアリズム溢れて、死ぬのが痛くて怖いゲームだけど。
 ……ほら、なんか仏教的じゃないですか。
 というわけで、俺のなかの君は、虚構化が進む君は、いまでも元気に虫捕りだとかスライム潰しだとか、気まずい飲み会で困った顔したりしてるよ。竜と戦ってるよ。

 やっぱり、死んだ人間はどこに行くのか、考えた。ま、考えるよね。
 基本的には仏教的解釈が染みついているから、四十九日頃を過ぎたら生まれ変わって、魂自体は不滅だとしても、全く違う存在になるのだと思う。つうか、肉体から抜け出た瞬間に、もう全く感覚が違うわけだから、肉体をもとに思考を形成してる我々とは意思の疎通なんてしなくなると思うけど。まぁ、とにかく、死んだら、やっぱりその人間はそれまでだ。
 じゃあ、なんも残んないかと言ったら、何かは残る。例えば、残留思念とかさ。そう言うと一気にオカルトぽくなるけど、残留思念て怨念がおんねんて感じで不気味だけど、ようは残された人間に残るもの、言い換えれば、つまり思い出だとか、そこから再構成されるイメージなんだと思うぜ。
 それはあくまで個人的なイメージでしかなく、さらに歳月と共に色あせたり、あるいは虚構化が進んでいくだろうけど、その人が大切な人で、いつまでも生きていて欲しいのなら、そのイメージを抱き続けるだろうし、それは間違いではないはずだ。ちょっとロマンチックに言うと、死んだ人は残された人の夢に入り込むのだから、夢を見ていないと大切な人は消えてしまうんだよ。
 こんなんでどうですか、美輪さん。

 いや、でもさ、結局こうして長々と書いたけど、これって昔からよく言われてることを言い直してるだけだよな。「大切なあなたはいつまでも私のなかで生き続けるの」とかさ。あーあ。
 でもさ、まぁ、いいんだよ。書きたかったんだ。
 こうして追悼文という体裁で、死んだ友達に語りかけるように、しかし結局は気色悪い自己総括を行っていること、そして、今後も大切な友人の死でさえネタにしてしまう(まぁ、なんか広い意味で)だろうこと、それらの正当化がしたかったのかもしれないけど。

「呆れて言葉も出ねぇよ!」

 そうだ、その調子で、これからもその甲高い声で突っ込み頼むよ。
 やっぱり、僕は君にいて欲しいよ。ただのイメージだとしても。

 最後に、この文章のタイトルだけど、自分でも忘れそうになってたけど、三つくらい意味があるのだ。

 まずは、スギチ山君が貸してくれた漫画のなかに、『蟲師』というタイトルがあったからだ。
 いまとなってはみんな結構有名な作品だけど、あいつはマイナーな名作を発掘する嗅覚があった。『花田少年史』とか、小学生のときにリアルタイムで読んでたもんね。流行る大分前だよね。あとは五十嵐大介とかか。なんか、まぁ全部に杉山色を感じるね。ま、あいつが一番好きだったのは水木サンだけど。
 
 次に、これも簡単に、スギチ山君と言ったら、ゲテモノ爬虫類、両生類、魚類、そして虫に対する異常なまでの執着と探究心。
 だから『ムシシ』。

 そして、三つ目だ。
 あいつは眠ったまま死んでしまったみたいなのでした。死顔は寝顔みたいに穏やかだった。夢を見ていて、そのまま起きるのを忘れてしまったような。
 だから『夢死し』
 死ぬことはやはり残される人たちには決して良いことではないけれど、死に方としては、うらやましい死に方だ。若くしてね。ポックリさんでね。あー、マジで本人はどう思ってんだろうね。
 『むしし』

 やっぱり四つ目があった。
 告別式が済んで地元に帰って、同級生数名と酒を飲んで、最後まで残った三人で朝までカラオケにいて、それから隣のファミレスで朝飯食って外に出た。
 着馴れない喪服と友人の死というシチュエーションで、やっぱり少し高揚しているような自分たちを酷く下劣に感じていたし、カラオケで騒いでる中途半端なヤンキーうんこ達は殺してやりたかったし、ファミレスの後ろの席でオール明けのテンションで愛について語ってる白痴大学生風のヤングメン達にはフォークを突き刺してやりたかった。朝日に照らされたベットタウンの町並みは白々しい明るさで、殺伐としていた。相変わらず、せんげん台~武里エリアは僕が嫌悪する景色のままだった。
 国道四号線の信号を渡った瞬間、何か急に閃いた。
 みんな、虫だと思った。どいつもこいつもおれも、みんな、ただの虫なんだと、妙な確信を持って感じた。
 いじけてる虫とか、夢を追ってますという虫、ガキの虫、優しい虫、金持ちの虫、いろんなのがいるけど、結局は虫だから。
 生まれ育った街を見渡すと、そこは虫の巣にしか見えなかった。お父さん虫が頑張って、せっせと巣を作って、みんなただ自分の家族のために巣を作ってるだけだから、計画性もなにもない。各虫家族の経済レベルと利便性でゴチャゴチャになってる虫の巣の街。
 僕は笑ってしまった。そして、ムスカ虫になって「人が虫のようだ。いや、虫そのものだ!」と友達虫に言った。
 限りなくネガティブな天啓だったけれど、逆にそれで楽になったんだ。
 ほら、所詮は虫だから。みんな取るに足らない虫だからこそ、お互いに人間として許せないところも許し合えるんじゃないかって、そんな気がしたんだ。一回りして、なんか仏教的にヒューマニズムだ。虫に優しく。虫だもの。汝の燐虫を愛せ。そう出来る気がした。
 そして、ふと思った。スギチ山君の見ていた世界というは、こんな視点から成り立つ世界だったんじゃないだろうか。だからこそ、あいつは異常犯罪者予備軍のような言動と、時として冷徹な観察眼、そして、大きな優しさを持ち合わせていたんじゃないだろうかと。あっさり「ちげーよ」と言われるかもしれないが、そのとき僕という虫はそう思ったんだ。
 そして、これをヒューマニズムに対するインセクティズムと僕は名づけたのだった。
 はい、また長くなったけど、四つ目の『むしし』。
 『虫視』ね。
 人間が虫に見えてしまうという視点を、ちょっと肯定的に扱うわけね。

 結局は駄洒落でオチが着いた気がするので、そろそろいい加減に終わろう。なんと、もう朝ではないですか。マジかよ。
  
 やっぱり君は、僕にとって凄く大切な『むしし』だ。
 一年前に死んでしまった君を追悼するし、死んでからの君についてもよく考えるよ。
 これからも、考えるだろう。
 ということは、いつまでも君をネタにするということだね。
 まぁ、そのくらいは許せよ、僕は生きているのだから。
 
 相変わらず、僕は自分を棚に上げて他人を馬鹿にしようとするし、その割には小心者だ。
 ちょっと病気にかかれば、標榜していた露悪趣味やニヒリズムに手のひらを返して、健康志向に走り出す。けれどもそっち側にも行ききれず、中学生のようにこっそり煙草を吸う。しかも、なるべく煙を肺に入れないように。我ながら格好悪いぜ。
 挙句の果てに、死んでしまった君をダシにして、こんな気色の悪い文章を長々と一晩中書いて、ろくに添削もせずにミクシーにアップしてしまうのだ。
 いまや下火だというミクシーの、しかも死亡説まで流れているという僕のこんな日記を、誰が最後まで読むというのか!
 まぁ、いいや。これが生きているということじゃあないか。所詮は虫の世界だもの。こんなんだぜ。
 倒せない竜との戦いは、実はそろそろ手打ちにしたいけれど、まぁ、それにはブッディズムが足りてないし、きっとずっと続くことだろう。
 あとね、僕は別に心を病んだりはしていないんだぜ。まぁ、憂鬱が普通っていう人間は逆にしぶといよね。

 まぁ、いろいろあったけれど、わたしは元気です。
 ジジも、発情期みたいで、夜は元気です。

 ぱぱい。