もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

混迷の現代における、ある一つの教育論の提起

フィッシュマンズの曲で「教育」というタイトルがある。
 実際に聞いてみると、きっと「なんじゃこら」と思うだろう。いま手元にCDがないのだけど、インパクトが強い曲だったので、わりと明瞭に覚えている。
 こんな曲だ。
 やたらに軽快な、どうもこのバンドらしくない疾走感の前奏、それが盛り上がったところで、
「シンナーは、良くない」
 ほとんど台詞に近いボーカルが唐突に入り、そしてまた唐突に曲自体が終わる。
 多分、曲全体でも一分に満たないだろう。前奏だけが長い。
 確か初期の頃のアルバムの一番最後に入っていたのだと思う。なんで最後にこれを持ってきたのか。まだ若い彼らのワル乗りなのかもしれない。
 しかし、この曲はなかなか侮れない。単なる皮肉だけでは終わらないものがある。
 義務教育の現場での道徳教育なんて、この歌詞くらいのものなんじゃないか。私はそう思うのだ。

 教育とは、なんだ。
 教師が生徒に教え、育てること、本当の意味でそんなことなど出来るのであろうか。せいぜいスタンダードな社会人としての「型」を刷り込むことでしかないのではないか。
 しかし、その「型」でさえ、いまの日本社会で有益に、過不足なく機能するようなものではない。
 というよりは、明確で普遍的な「型」がもう存在し得ないのだ。
 教育勅語の時代はとうに過ぎた。平和教育自由主義教育も、一通り行き渡ってしまえば、当初はそこに篭もっていた熱のようなもの、教育を行う側の確信ともいうべきもの、それが段々と薄れていき、いま残っているのは形骸化した曖昧な概念でしかない。
 その曖昧なものを、教師達が各々のさらに曖昧な解釈で噛み下し、あるいはただ文部科学省作成のマニュアルに沿って、「教育」を行う。
 そんなものが、うまく機能するわけはないのだ。
 それでも、教師達はそういった「教育」を続けるしかない。それが彼らの職務内容なのだから。
 大半の教師も本当は気づいているはずだ。
 世間を見渡せば、多様な価値観の乱立で、混迷を極める現代日本。確信はあくまで個人的なものでしかない。それなのに、生徒達に、少なくとも表面上は確信を持った振りをして、良い人間であれ、などと教えなくてはならない。そもそも、自分自身は「良い人間」で、教育されてきた「型」は本当に正しいものなのかだろうか。疑いを持って当たり前じゃないか。
「いや、そんなことはない。僕には、私には、子供達に教えることがある」
 抜けぬけと素面でそんなことを抜かせる人間を、私は信じない。
 例えば一緒に酒場に行けば、彼らの話は大抵がつまらない。つまらないだけでなく、耐えられない。
 自分が立っている曖昧な前提を、ちゃんと疑ったことはあるのか。きっとないだろう。少し落ち込んでも、すぐに浅薄な流行もののポップミュージックの歌詞なんぞに簡単に癒されて、たちまち前向きに「明日へ向かおう!」きっと、そんな青春を送ってきたに違いない。
 その倣岸無恥な「強さ」で教壇に立ち、せっせと無邪気な白痴を再生産しようというのか。勿論、それに反発を覚えてひねくれる者や、あるいはオチこぼれるものも同時に。
 勘弁して欲しいものだ。

 とにかく、私は危惧している。
 明確な原理に裏打ちされた律がいまや存在せず、ということは教師も規範の理想的体現者とはなり得ないわけで、では、一体何を教育し得るかというと、
「シンナーは、良くない」
 この程度のことではないか。場合によっては、
「勿論、麻薬も良くないし、さらに人殺し、強姦、窃盗、詐欺などの犯罪行為も良くない」
 と続けても良い。……まぁ、それだって究極的には「個人の自由」なのかもしれないが。脳と歯が溶けたり刑務所に行くことを是とするならば。
 しかし、とにかく、それらの行為は明確に良くはないのだ。自覚させねばならない、最低限の道徳だ。
 そして、教師が生徒に教えられるのは、それくらいではないか。


 小学校教師のもとで居候をしていた時期がある。
 居候は断続的なものだったが、かなりの時間、彼女の生活のなかにいた。テストの採点も手伝ったし、受け持ちの生徒達の話もよく聞いた。頻繁に名前が出る生徒のことなどは、まるで自分の生徒のように思えた。
 彼女は音楽の教師なのだが、持ち回りで各学期に数回、道徳の授業をしなければならなかった。専門外のことで不得手だというので、いつしかテキスト選びから生徒への質問内容などの事前準備などは、全て私が受け持つようになった。
 道徳の授業のあった日、彼女が帰ってくると、まずは実際の授業風景や生徒の反応を聞き、それから回収したプリントを一枚一枚読んでいく。そこには授業で問いかけた質問への答えや授業自体の感想が書かれている。それを教師が読むことで、授業は一応完結するのだ。
 そもそも道徳の設問には正解などないはずだ。
 しかし、道徳教材集の指導要領には「こういった結論に生徒達を導くべく授業を展開せよ」といったことが、実はかなり明確に書かれている。
 当初はそれに沿う形で授業計画を立ててきたのだが、回を重ねるごとに、また生徒達それぞれの多様な反応や、驚くほど豊かな発想力などを目の当たりにするにつれて、私はそれまでの「道徳の時間」に疑問を持つようになった。

 ある日、私は彼女に言った。
「今度の道徳の授業さ、ちょっと、冒険してみたいんだよね」
「へぇ、どんな?」
「もうさ、こんな教材は使うの止めてさ、これを使おうよ」
 私が彼女に差し出したのは、一冊の漫画の本だった。その短編集の何篇かが、私の考える「道徳」には打ってつけの教材だと思ったのだ。
「……ちょっと、これは使えないかも」
 漫画を読み終えると彼女は言った。しかし、その反応は私には予想がついていたものだった。
 その短い物語では、貧困や社会的弱者と、それに対する差別が扱われていた。しかし、それは「差別は良くない」という道徳的なメッセージを前面に出したものではなく、むしろ差別してしまう側に寄ったものだった。無邪気だからこそ残酷な子供の視線で、そこにあるものをただ描いていく。説明的な台詞も訓戒的な結論もなく、だからこそ読む側の心に強く訴えかけてくる。「叙情派」と言われる作者らしい短編だ。
 確かに、小学生にはまだ早いのかもしれない。それに、そこに描かれている出来事や感情は、彼らにとっていま現在生々しくあるもので、だから逆に理解されない可能性も高い。
「でもさ、そうだからこそ、やるべきなんじゃないかな」
 私は自分の小学校時代を思い出していた。
 考えてみると、教師が教師らしく教壇に立って喋ったようなことは、いまとなっては殆ど覚えていない。記憶に焼きついているのは、授業の合間やなんかにその教師が喋ったムダ話やなにか、「道徳的教育」から逸脱したパーソナルなものではないだろうか。
 例えば、私の小学校時代の教師が、自分が見た映画の話をしていた。北野武監督の映画なのだが、その当時には「たけし映画」というある種のブランドはまだ一般的ではなく、むしろ「ビートたけしという芸能人が撮った色物映画」という認識であったと思う。その教師は映画の内容を簡単に説明し、さらに「街で男と女が抱き合うお約束的なシーンがあったのだけど、そこからカメラがパンしていき、踏み切りの側で揺れる雑草のような花を映した。監督が本当に撮りたかったのは、ここなんだと思った」という話を、まともに見る映画といったら金曜ロードショーのジブリアニメくらいであろう小学校四年生達に延々と語っていた。
 当時はよく理解出来ていなかったが、その話の内容を十数年経ったいまでもよく覚えている。
「そういうのがさ、その場では理解出来なくても忘れられない印象ていうか、ある意味で生徒の心にクサビを打つような、それが本当の教育って言えないかな。……だから、これをやることに価値があると思うんだ!」
 熱っぽい口調で、私は語った。勿論、クサビを打つのは良いこととは限らない。理不尽な教師の言動など、教師が自覚しないところまで、生徒の方はずっと忘れないでいたりする。それだって「クサビ」のようなものなのである。そして、それがどう作用するのかは分からない。しかし……。
「……分かった。やってみよう」
 暫く考えたあとで、彼女は答えた。
 入念に準備をし、当日の朝にはいつもより緊張した面持ちで、彼女は家を出て行った。

「あー、とりあえずホッとしたよ」
 彼女は心底からそう言って、美味しそうにビールを飲み干した。
 授業では活発に意見が取り交わされるという雰囲気ではなかったらしいが、生徒達は真剣な表情で作品を読んでいたという。返ってきた感想プリントを見てもそれが伺える反応だった。彼らの心に、なにがしかの印象を与えたことは確かなようだった。「クサビを打つ」という観点からすれば、成功なのでないだろうか。
「お疲れさま」
 お互いにそう言いあって、フキノトウのテンプラを頬張る。
 店内には落ち着いた感じのジャズが流れていた。この店は彼女が以前から知っていた店で、ジャズバーのわりに妙にツマミが凝っている。この季節には山菜のメニューが充実している。マスター自ら山に出かけて採ってくるのだと言う。
「なにか良いことがあったんですか」
 白髪で渋めのマスターが聞いてくる。余程嬉しそうな顔でもしていたのだろうか。
「いやいや、クサビがね……」
「は?」
「あ、なんでもないです。……あの、マスターは小学校の頃、何になりたかったですか?」
 少し酔いが回った彼女の質問にマスターが考え込んでいると、周りの常連客達が口々に「俺は○○!」などと答え出して、店内は騒がしく盛り上がった。マスターはずっと考えていたらしく、大分あとになって、ポツリと言った。
「やっぱり、こういうことがしたかったんじゃないかなぁ……」
 マスターはカウンターから出て「ちょっと陽気なのにしようか」とレコードを交換した。スピーカーからギターが流れ出す。すぐに「こいつはいいね!」と叫んだのは、さっき「俺は警察官になりたかった」と言った堅気ではない雰囲気の中年男だ。レコードのジャケットには西洋の騎士のような人物が描かれていた。俺はこの店がすっかり気に入ってしまった。ギターは過剰なほどに盛り上がっていく。
 自分たちの小学生の頃、そして彼女の教え子たちのことを思って、俺は機嫌よく飲んだ。彼女も楽しそうに笑っていた。
 こういった形で「道徳教育」というものに携われたことを嬉しく思った。人生とは、優しさで出来た紙芝居のようなものだと思った。
 そして、店の勘定は、勿論、すべて彼女が払った。いつものように。

 すっかりこの店が気に入った俺には、彼女から毎日手渡される二千円の小遣いでは不足になっていた。飲み代に加え、気に入ったジャズナンバーのCDも手に入れるためには、どう考えても足りない。臨時の小遣いを度々要求した。さらに彼女の家にあるCDコンポでは明らかに音質が悪く、再三に渡って不満を言い、十数万のものをローンで購入させた。音楽教師なんだしさ、と購入を迫ったのだが、いざ部屋に置いてみると、ワンルームマンションには不釣合いなものでしかなかった。そして所詮は教員の薄給であるので、家計は当然のように逼迫した。しかし、金が欲しい。紫煙と夜の匂いと酒のビートが俺を誘った。ある日、店に行くと常連の一人と論争めいたことになった。仏教系の大学の修士課程にいるとのことで、かねてよりジャズの他に仏教にも傾倒し始めていた俺の心に火がついた。が、所詮は俺の知識など付け焼刃で、専門的な話になると太刀打ちがならない。よって情に訴えかけるような主観的な論説を展開し、さらに話がまたややこしい定義問題になりそうになると、いい加減に茶化して誤魔化した。酒が進んでさらに面倒になったので、向こうが何を言っても「一切皆苦!」としか叫ばなかった。気がついたら、強烈なパンチを食らって倒れていた。起き上がって反撃を試みたが、相手がかなり体格がいいことに気がつき、それに対する怖気もあったのか俺の拳は空を打って、さらにその勢いでもんどりうって倒れた。割って入ったマスターに出入り禁止を言い渡された。性質が悪いのは俺の方だったらしい。まぁ、そう見なされた。帰って彼女に傷の手当てを受けながらいまだ呪詛の言葉を吐いていると「いい加減にしようよ」と泣かれた。レコードを入れ替えるように、心を入れ替えようと思った。しかし俺の音程はずっと狂ったままだった。彼女から小金をせびってはパチンコなどをした。警官志望だった中年男とよく一緒になったが、奴もまた性質が悪く、なんだかんだと勝ち分を騙し取られたし、それを抜きにしても自分ではトントンの勝負と思っていたが、いつの間にかつまらない借金がかさんだ。そんなある日、彼女が妊娠を告げた。よくよく考えてみたら、俺は暖かい寝床と安楽な慰めが欲しかっただけではないのか。少なくとも、そのときはそう思えたし、ましてや子供なんて無条件に自己犠牲や責任を強いられるものをもつのは御免としか言いようがなかった。結果、俺は彼女を捨てた。彼女は俺との子供を諦めて、地元の名古屋に帰っていった。いまでは、そこでまた教師をしているのだろうか。あるいはピアノ教室でも開いているのだろうか。幸せな家庭を築いているのだろうか。それは分からない。俺のレコードは相変わらずガタガタと、不味いアドリブソロを鳴らして回っている。それを俺は一人で聞いている。それが俺にとっての道徳の時間なのだ。


 以上を書き終え、一階のリビングに下りていって牛乳をコップ一杯飲み干し、窓からの朝日に目を細めた。
 頼んでもいないのに、朝が来やがる。相変わらずだ。ふざけんな。苦々しい気分で雨戸をしめた。
 その音に驚いて、ソファで寝ていたクソ犬が吠え出したので、蹴飛ばして黙らせた。「ひぃん……」と鳴いて犬はこちらの顔色を伺ってくる。その犬の顔を見ていると、本当にこいつは俺と同じ育てられ方をしたのだなと思って、反吐が出そうで逆に笑えた。
 なにもかも、教育の結果だ。
 シンナーはやらなかった。
 その頃うちの地元にはまだよくいたような、分かりやすい不良化(リーゼントとか暴走族とかね。マジかよ)はしなかった。
 しかし、どうだろう? この俺はなんだ。
 中学なんかで不良化したやつは「むかしはちょっとワルでさ……」みたいなオーラをプンプン発しながら、まぁ大抵が真面目に社会生活に取り組んでいる。少なくとも月曜日の早朝に、実家の愛玩犬を蹴飛ばすなんてことはやってはいないだろう。
 さぁ、俺はどうだよ。
 これは、明らかに良くないだろ。
 そうだよ、俺こそが不良だ。いまさら更正の見込みもない。威張ってもいいはずだ。
 教育の結果だ。どうしますか、校長。
 全てを春日部市の義務教育の責任として、俺は自分の母校に乗り込んで無差別な暴力行為に及ぶのか。例えば、これから。
 けれど、そんなことはしない。
 何故なら、俺はもっと個性的で独創性溢れる犯罪者になりたいからだ。他のよくあるやつじゃなく。どうせなるのなら。
 そう、これも個性を大切にする無個性教育の賜物だ。犯罪の抑止力! ありがとう教育委員会。

 聞いてください、センセイ。
 これから僕は母親の財布からこっそり札を抜いて、駅前の宝石というパチ屋で勝負してこようと思います。
「あなたは私にも甘いけど、自分にも甘い」「サイテーだね……」そう言ったときの、彼女の悲しそうな表情が頭にちらついて、勝てる気はしません。きっと母親の一万円札はあっという間に消えてしまうでしょう。
 けれど、僕は勝負しようと思います。つまらないギャンブルに過ぎませんが。
 僕は、終わっています。
 二十代半ば、教育の結果は、例えば「オワタ」と2ちゃんに書き込んで「チラウラチラウラ」とスルーされる、というかたちで出たようです。
 僕は、本当に終わってしまったのでしょうか。もう、自分では自分が分からないのです。
 センセイ、あなたはどう思いますか。
「馬鹿野郎、こっからだ」
 本当ですか?
 熱血教師のセンセイ。か弱き大人の代弁者のセンセイ。僕にちゃんと教えてください。僕は終わってはいないのですか? そして、その問いに答えてくれるあなたは、本当はどこにもいないということを。
「馬鹿野郎、こっからだ」
 センセイ、これ、意外にいい言葉ですね。さっきふと思いついて、あなたに言わせてみました。
「馬鹿野郎、こっからだ」
 自分でもそう呟きながら、絶望的にしょぼいパチンコに、いまの自分を賭けてみようと思います。
 そして、僕は何度でもいつまでも、そう呟き続けるでしょう。
 ありがとう、センセイ。

 ところで、センセイって誰だよ、馬鹿野郎。







 蛇足に蛇足を重ねるけれど、なんか心配になったので。
 ……世の中には「虚実皮膜」って言葉があるよね。
 まぁ、なにがいいたいのかって言うと、あらぬ誤解とかを自ら生みはするけれど、あんましマジに取られるとマジで凹むよね。そんで、そんな小心者の僕ちゃんてば、愛嬌あるでしょー、許してーっていう。
 あーあ。
 全部を小馬鹿にするっていうことは、意外に難しくて、そして全部がなかなか馬鹿には出来ないものだってことを知ることに繋がるのかな、といまフト思いました。かといって、何でもポジティブに認めればいいというのも違うと思うけど。
 まぁ、また徹夜で書いてたら長くなって意味わかんなくなりました、と。
 徹夜は疲れるけど、眠れない夜は仕方がないですね。
 パチンコはしません。どうせ負けるだろうし。そして、いま実家にいるわけでもありません。けど、母親の財布があったら何枚か抜きたくはなるでしょう。
 あーあ。

 ぱぱい。