conversation

場末の街の、場末の喫茶店で、場末感漂う珈琲を啜りながら、おれは隣席の男女の会話に引きつけられていた。


「オオヒラさんね、死相が出てる。死んじゃうよ、もうすぐ」

「シソウ？　失踪？　ああ、死相か。ふーん」

「あ、ほら、そうやって、すぐ煙草吸う。パカパカパカ……。ああ、分かった、肺ガンだね。肺ガン死するよ、オオヒラさんは。苦しいよ、苦しんで死ぬよ。苦しんで死ぬとね、顔に出るの。死に顔に。うわあ、ほんと、オオヒラさん、死相出てる」

「そうかねえ。おれは多分、そんなんじゃ死なない気がするけどねえ」

「なら、事故死だね。酔っぱらって線路に落ちたところに電車が来るの。オオヒラさん、バラバラになっちゃうね。可哀想だなあ、オオヒラさんの死体拾わされる駅の人。あれだ、もしかしたら、事故じゃなくて押されたのかもしれないね。ホームで、立ってるところを、後ろから。そうだ、あたしが押してあげようか？　押してあげるよ。でもさ、運良く助かっても、車椅子だね。あ、見える、見えてきた。独りぼっちのオオヒラさんが、車椅子で買い物してるところが。ああ、大変、誰も助けてくれない」

「そうすると、美人の看護婦さんがおれに付きっきりになるんだな。軽くオシリとかさわっちゃったりしてな」

「オオヒラさん、いい加減にしなよ。真剣に考えたほうがいいよ。孤独死だよ。このままだと、そのうち、確実に。誰か面倒見てくれる人、いるわけ？　いないよね、誰も」

「ようし、若い女の子でも捕まえて、一緒に暮らすかな」

「また馬鹿なこと言ってる。オオヒラさん、もう幾つ？　６５でしょう。どうするの、これから？　老後のこと、ちゃんと考えてる？　……ああ、あたしがオオヒラさんの歳だったら、すごく悩むだろうなあ。孤独死だ、オオヒラさん。オオヒラさん、あたしと２０も違うんだね。あーあ、もう死相出ちゃってるね」

「なんだ、４５なのか。おれとそんなに違わないかと思ってたよ。ほんとは、５５なんじゃないの？　４５じゃなくて」

「はっ、なに言ってるの。失礼だよ、オオヒラさん。いい加減にしてよ。オオヒラさん、ほんと失礼」

「ははははは。どうだ、なんか食べ物もとろうか？　それともどこか別のとこに行くか」

「ほらほら、そうやって、食べたいときに食べて、寝たいときに寝る生活。そんな暮らししてて、油こいものばっかり好きで、お酒も飲んでさ。確実に病気になるよ、このままじゃ。あれだ、食道ガンとか。ほら、もうリンパから全身に転移してるよ。あたしには見えるね。オオヒラさん、もうすぐに死んじゃうんだ」

「じゃ、いまからホテル行こう。もうすぐ死んじゃうから、急がないと」

「また、つまんない冗談言わないでよ。真面目に考えてよ。もう一年くらいしかもたないよ、きっと。倒れたオオヒラさん、誰が看病するの？　……ああ、妹さんと、お母さんもまだ生きてるんだっけ。じゃあ、あれだね、動けなくなったオオヒラさんは、その二人に虐め抜かれるんだね。今までの恨みで。貯金も全部抜かれるね。年金だって持ってかれちゃう。うわあ、可哀想」

「老人ホームにでも入って、誰にも迷惑かけずに死ぬよ、おれは」

「いーや。オオヒラさんは、苦しんで死ぬよ。絶対。だから、死ぬ前に何かいいことした方がいいよ。一つだけでも。そしたら、オオヒラさん、いいことあるよ。死んでからだけど。ほら、あたしの家を助けるとかさ」

「生活保護で、なんとかやってるんだろう？　おれも貰おうかなあ」

「なに言ってるの、オオヒラさん。オオヒラさんみたいな人、貰えるわけないでしょう。そうだ、オオヒラさんね、いつも飲みに行くあの店、もう行かないほうがいいよ。みんな、オオヒラさんのこと嫌ってるからね。若い人だって、みんなオオヒラさんが嫌で来なくなっちゃうんだから。若い人に好かれるわけないのよ、オオヒラさんみたいなのが。ああ、そしたらオオヒラさん、駅の裏の熟女パブに行くといいよ。若い子なんか、オオヒラさん相手してくんないんだから」

「でも熟女っていっても、あんたより若かったりして」

「なに言ってるの。オオヒラさんにつくのはね、６０くらいの熟女だから。オオヒラさん６５だから、５歳若いね。それくらい。若い子なんか、絶対付かないから」

「あんた、やっぱり５５なんじゃないの」

「オオヒラさんね、四捨五入したら、７０だよ。７０。老後面倒見てくれる人、探しなさいよ。奥さんと復縁するとか。いまみたいに生活してると、絶対病気になるよ」

「あんたも、頑張って若い男捕まえるわけか」

「なに言ってるの、オオヒラさん。あたし、３回も結婚したんだからね。３回。だからもう十分。オオヒラさん、もう６５なんだからね。考えないと、駄目なんだからね。あたしは、またもう少しいいけど。孤独死するよ。死相出てるよ、オオヒラさん」


いつこの女が「でも、この壷を買えばオオヒラさんは救われるの」なんて言い出すかと思ったが、そんな霊感商法的な様子もなかった。

この二人は、どういう関係なのだろうか。

女の表情は、なんだか非常に楽しげだ。微笑みを浮かべながら、かなりエゲツない毒を吐き続ける。一方のオオヒラさんは、ボソボソとトボケた風にそれをあしらい、リラックスした様子で煙草をくゆらせる。

女は確かに、オオヒラさんの言うように５５くらいにも、だが４５と言われればそれで通用しそうに見えた。若い頃はそれなりに美人で、ちやほやされてきたような、どこか華やいだ雰囲気も感じられた。
一方のオオヒラさんは、歳相応にはげ上がってきた白髪頭、見事に突き出た下腹から長年の不摂生が伺える。女への切り返しの、投げやりで軽い口調が彼の生活とこれまでの人生を表しているのかもしれない。

飲み屋で知り合った友達同士、といった感じだろうか。
端から見たら随分とヒドいやり取りだが、当人同士は暗黙の了解のもと、いつもの応酬をしているだけであり、その根底には暖かさが流れ、実はお互い気遣い合っている、という関係も、おれ自身の経験を振り返って想像出来なくはなかった。
でも、ちょっとやり過ぎじゃないか。オオヒラさん自ら、この女のサンドバックになることを楽しんでいるにしてもだ。
前期高齢者の過激なスパーリングに、おれは圧倒された。


とにもかくにも、他人同士の会話は興味深過ぎる。
それぞれの世界が、それぞれ、あまりにも違うのだ。
見えている風景が、感じている空気が、交わされている言葉が、みんな違う。
ごくごく当たり前の話だが、こうして他人の会話を盗み聞きしていると、改めてそれに気づかされる。

オオヒラさんたちが席を立って、いまは同じ席にサラリーマン二人組が座り、会社の福利厚生について話していた。
一方はかなり熱くなって会社の姿勢を辛辣に批判する。もう一方はその主張にゆるやかに同意し、なだめているようだ。
でも本当はどちらの味方なのかは分からない、とおれは思う。


とまあ、こんな感じに、ひたすら人々の会話を盗み聞きしてメモを取り、さらにそれをもとにリアルタイムで小説化する、という作業に没頭していると、向かいの席に座っているおばさんが、妹の旦那がいい歳なのに訳の分からない私小説のようなものを書き散らかすばかりでろくに働きもせず貧困、身内の恥をさらす恥知らず人間として終わってる、妹のためにも親族の名誉のためにも速やかに更正してもらいたい、という話を声高に語り始め、おれは耳が痛く、勿論その私小説家に感情移入し同じ涙がキラリ、泣きながら喫茶店を出た。

そのまま駅前の焼鳥屋の暖簾をくぐり、ハイボールで砂肝と涙を呑み下していると、隣に座っているのは、なんと先ほどのオオヒラさんと自称４５歳の女。相変わらず拳闘の如き言葉の応酬に聞き入るが、ふとしたきっかけで言葉を交わし三人、いも焼酎で乾杯。お湯割り。ここにきて、カンバセーションがコラボレーション。気が付けばハシゴ酒、三軒目のカラオケスナックでオオヒラさんは酔いつぶれ戦線を離脱、途端、おれの酔眼には自称４５歳バツ３の彼女が天女のように映る。おれはオオヒラさんばりに軽妙かつ投げやりの誘いの言葉、やや露骨なボディタッチ、つまるところ彼女と寝てみたい。頭はそれで一杯。さてもさて、転がり込んだる女の部屋。蛇のように執拗に絡み付く彼女にまたがられ「engagement!」おれは叫んで下から果てる。
目覚めて翌朝、ニヤニヤと笑っておれを見つめる自称４５歳。「盗み聞きなんて、最低の人間がすることだよね」さては鞄のなかのメモ帳を見られたか。
「まあ、分かってたけどね。始めから。あなたと会う前から。あなたも一緒、オオヒラさんと一緒」一瞬、背筋を冷たい旋律が流れ。と、襖が開き隣屋から詰め襟学生服男子中学生現れ無表情におれを見つめ、何も言わずにまた襖が閉まる。部屋の隅の押入が開いていて、そこには仏壇。仏頂面の、さっきの中学生によく似た中年男の遺影がおれを見つめている。公団住宅に差し込む朝の光のなか、女の笑顔がマガマガしい。
「あなた終わってるよ。オオヒラさんと一緒」
「あんたやっぱり４５じゃないだろう。サバ読んでるだろ」
涼しく受け流すおれ、暫く止めていた煙草が、無性に吸いたい。場末だ。