もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

とんぼ

強烈な一撃をどてっぱらに食らったようだった。
苦しみに脂汗が滲む。
重い足を引きずり、なめくじのように這い進む。自分を運べるのは自分の足だけだ。つまり進むしかない。どれだけそれが困難で理不尽でも。
背骨をきしませるような痛みが、稲妻のように走る。
「ふぅぅぅっ……!」
思わず声が漏れる。

久しぶりの大口の仕事。濃紺の三つ揃いのスーツ、イタリア製の革靴でアスファルトを鳴らし、おれは颯爽と出掛けた。
スーツ姿は我ながら様になっていたし、先端が尖った革靴は、舐めた真似をしてきたチンピラを地べたに転がし、惨めな懇願でシガミつく奴の腹にめり込んだ。つまりとても役に立った。
幾つかの鉛弾が発射され、三下ギャングの命をいかにも呆気なく削り取った。サバかれたブツは、どこかの裏町でそれなりの騒ぎを引き起こすことになるだろう。そしておれのポケットは札束で溢れた。
取引は成功した。

「ふっ、ふっ、ふっふ、ふー……」
腰のベルトに後ろ手をかけ、上体を反らす。天を仰いで見開いたマナコに、涙が滲む。
痛みは周期でやって来る。
ひたすらに耐えるしかなかった。しかし痛みは増していく一方だ。
「ぬあああああああああ!」
漏れ出る声が、ほとんど咆哮に変わる。

異変を感じたのは、帰り道だった。
疑念はすぐに確信へと変わった。
木枯らしが吹く川沿いの道、風景自体が薄ら寒い。あまりにもしけた駅前のメインストリートは、気づかぬうちに通り過ぎていた。東京近郊のその街に、いまのおれのヤサがあった。
どうやら、ここまで引っ張ってきちまったらしい。
「野郎、来るなら来やがれ。コソコソすんじゃねえ!」
焦れたおれが声を上げるのと、それがやって来たのは、殆ど同時だった。

電信柱にもたれかかる。稲妻のような痛みが身体の自立を奪っている。進むどころか、ただ立っていることも難しい。
「ふっ、ふっ、ふっ、……まだだ、まだだ、まだいっちゃならねえ、まだなんだ……」
うわ言のように繰り返す独り言。なんとか痛みをやり過ごす。だが痛みの波が引く瞬間、おれの意識も途切れ、もっていかれそうになる。辛うじて、そこに踏み止まる。
まさかこんなところで、おれは終わってしまうのか。
いや、そんなことは許されない。
だが周期は段々と早くなり、痛みと衝撃は増していく一方だ。
限界が近い。
切羽詰まっていた。
詰まり過ぎて、決壊を起こそうとしていた。
おれの腹が、肛門が。

膨れているのは、現ナマでパンパンのスーツのポケットだけでなく、昼食のカルボナーラと玄米オニギリを消化し切れていない、おれの腹だった。
スーツのズボンは、久しぶりに履いたときから、かなりキツイな、と思っていた。無理せずホックを外しておけば良かった。よし、まあ、とにかく、いまからでもそうしよう。慎重に、刺激をせぬようにベルトを緩める。ほんのいっとき、解放感がよぎった。だがその解放感は、さらなる苦痛を招いた。圧迫から開放されたものが、さらに解き放たれることを求め、出口に向かう。
「っっっふうううううううううぬぬぬぬぬ……!」
悶絶しながらも、なんとか堪えた。
括約筋が、最後の砦だ。そこを緩めれば、おれは終わる。

うんこがしたかった。
超したかった。

駅から家への道のりは、果てしなく遠かった。
よりによって、そこでうんこがしたくなった。
途中、トイレを借りられるような店も、公衆便所もなかった。
歩くしかなかった。
はき慣れない革靴で、ひどい靴擦れを起こしていて、それを庇いながら動き回っていたので、親指がねん挫したように痛んでいた。だから左足を引きずり、ゆっくりとしか歩けなかった。
悶絶するしかないような痛みが、何度も襲ってきた。
いくら歯を食いしばっても、そう長くは耐えられないだろう。

うんこがしたい。
それだけで頭が一杯になった。
他のことは、すべてどうでも良かった。
そのときおれは、可及的速やかにうんこをすること、その一点のみのために存在し、生きていた。

地獄のような帰路。
道路脇の自動販売機の前で、暴走族の連中がたむろっていた。何がしかの因縁をつけ、恐らくはおれから小銭を巻き上げようとしていたのだろう。しかしそんなガキ共の拙い脅し文句を最後まで聞いてやる大人の余裕などすっかりなくしていたおれは、黙って鞄からハンドガンを取り出し狙いもろくにつけず引き金を引いた。乾いた銃声。悲鳴を背中に、痛む足を引きずり歩を進めた。
普段の足ならば、もう帰宅したも同然のところまで来た。寒々しい田畑の横に、建て売り住宅が並んでいる。もうすぐだ。だがいまのおれにはあのベージュの屋根が、実家が、トイレが、まだまだ遠く感じる。やっぱ超うんこしたい。すぐにしたい。祝日なので、近所の小学生がたむろっている。DSだとかカードゲームに興じているのだろう。普段おれは奴らに気さくに話しかけ、ときには遊び相手までしてやり、不審者一歩手前の近所の得体の知れないでもちょっといかしたオニイサン(まだオジサンではない。断じて)というポジション。だがいまは相手をしている場合ではない。話しかけたりするなよ。この必死の形相から察しろ。「あ、オッサン。こないだ買ったポケモンカード、パチもんじゃねえか。小学生相手にそういうことすんなよな!」声をかけてきたのは、奴らのリーダー格の小5。糞生意気な。おれは糞がしたい。構っている暇は微塵もない。スーツのポケットから札束を一掴み、その辺にバラ撒いた。「すげえ、万札だ! 拾え、拾え、1枚たりとも逃すな」小学生どもの黄色い歓声を後ろに、おれは痛む足引きずり進む。ああ、もうすぐ、もうすぐなんだ。
いよいよ家の前まで来た。あとはポーチを上り、玄関の扉を開け、靴を脱いで鞄を放り投げ、短い廊下の突き当たり右側、いよいよ、待望の……!
「ぬぐおっ!」
おれは悶絶した。脳内の開放イメージに扇動されたものが腸を下ろうとしたのだ。なんとか抑えた。いかん、ここで緩んでは取り返しのつかないことになる。ゴール間際に慎重さを失うな。これは鉄則だ。

「あらあら、古阪さんちの息子さんじゃない。久しぶりねえ」
隣の玄関のポーチから、オバサンが話しかけて来た。
「立派な格好して、どうしたの? もしかしてちゃんとお勤めに出るようになったのかしら? そしたらご両親、きっと喜んでるわね!」
こちらの反応を無視して一方的に喋りだすオバサン。彼女は噂好きで世話好きで無神経。まさしく『オバサン』という生き物のパブリックイメージそのままの人物だった。そしてオバサンとは、人類の進化の最終段階の一つだ。つまり最強。
「ほんとねえ、アナタむかしはあんないいコで、挨拶もキチンとしてくれてたのに、いっときはどうなるかって、オバサンも心配してたんだから」
どこまでもいつまでも続きそうな余計なお世話の繰り言に、おれは額に脂汗を滲ませ、だがなんとか笑顔を作り「ええ、はい」などと震えた声で相づちを打つ。すぐにでも家に入りたかったが、そうもいかない。脈絡もなくどうでもいい芸能人のゴシップニュースを語り始めたオバサンに、一瞬、おれの頭を拳銃と現金のイメージが掠めたが、すぐにそれを振り払う。オバサンは最強の生物だ。銃も金も効き目が薄いだろう。そしてご近所付き合いは大切だ。これは鉄則なのだ。
「えっ、はいっ、あのっ、じゃあ、僕はそろそろ、これで……」
何とか無難に話しを切り上げようとするおれの腹に、またもや強烈な一撃。イカズチが落ちたような衝撃。今度のは、いままでの比じゃないくらいに激しい。
「んんんんんんっ……!!」
悶絶して、とうとうその場に倒れ込むおれ。
「ぬ、ふ、ぬ、ぐぬ、ふぬ」開放を求める民衆の、激しいシュプレヒコール。腸内バスティーユ牢獄襲撃。ちょっと、その革命はまってくれ、頼む、お願いします。謝るからああああああ!
「え、ちょっと、大丈夫? どうしたの?」駆け寄ろうとしたオバサン、しかし異様なまでのおれの苦しみ方に引いて、その場に立ち止まる。
オバサンだけでなく、騒ぎを聞きつけたのか、いつしか近所中の主婦や休日で暇なオッサンに子供たちが、倒れ込んで悶絶するおれを遠巻きに囲んでいた。

「ふっ、ふっ、っふ、ぬ、あ、あ、……てんじゃねえ、…見て、んじゃ、見てんじゃねえええええ!」
おれは叫んで、周囲を威嚇した。
渾身の力で再び括約筋を締め上げ、いまだに沈静化しない腸内の大暴動を力でねじ伏せる。震える足で、何度もよたつきながら、それでも立ち上がった。
見ているだけで手も貸そうとしない近所の連中の輪を押しのけ、無様だが、確かに自分自身の足で歩き出す。
自分を運んでくれるのは、自分の足だけだ。
そして自分の糞を拭いてくれるのは、自分の手だけだ。
悲鳴を上げて遠ざかるニュータウンの家族に、平和なご近所さん連中に、おれは脱げた革靴を投げつけた。それから、手についた生暖かに香る、個体と流動体の中間くらいのものを。

さっき、ちょっと出た。


完。


これは一体、どういう意図で書かれたものなのか、と自分で解説を入れます。
つまり久しぶりにスーツ着て仕事に出掛けて、帰り道で猛烈な便意に襲われて大変だった、ということです。
それをノワール調でドラマチックに書いてみました。
それだけです。
実際は、もらしてはいません。間に合いました。ほんとだよ。

どうだ、下らねーだろう!
でも結構時間かかった。
なにやってんだ、おれはよおおおおおおおお!


でもスーツで悶絶していたら、そんな自分にドラマ『とんぼ』最終回の長淵を重ねていました。
youtubeにあったので、貼っておきます。



やっぱりこんな感じだったよ!
まじで!

ぱぱい。