もうこはん日記

いまだ青い尻を晒せ

健康な私

最近の僕のテーマは「健康」である。


先日、バイト先で「お前はやばい」と言われた。
僕の目は社会不適合を主張してギラギラ乱反射し、そうかと思えば、雨に濡れた子犬のように怯え、母性を弄ぶ。それを見た女はもう放っておけず、瞬く間に腕の中、くんずほずれず坂道転げ、果ては愛液まみれの無間地獄、ヨッ女殺しぃぃ!
って事かと思ったら、違うらしい。

「その変に弛んだ身体と動きはとても二十代前半には見えない。間違いなく成人病のキャリアだ」
言ってきたのは、四十にして痛風になった、実にいい加減な酔っ払い方をするミュージシャンだ。
言い返したかったが、自分でも心当りがあり過ぎるので黙ってしまった。

最近、すこぶる身体の調子が悪い。
風邪を引けばこじらせる。
日中は頭がぼんやりして、使い物にならない。得意のはずのマシンガンのような屁理屈が、すかしっ屁にしかならない。
顔色が悪い。肝臓がやられているのか、それともウンコを題材にして映画撮った呪いか。ウエカワと一緒に居過ぎたのか。茶色だよ。

黙る僕に、親方までもが「うん。お前はやばいぞ」と言う。自分は人間ドックの結果が怖くて取りに行けない癖に。
ロン毛のおっさんは「ほら、若者!元気出せ」と背中を張ってきた。この人は非常に元気だ。特にこないだタイから帰ってきてから目がやけにギラギラしている。向こうで散々ハッパか何かをキメてきたに違いない。
「おれ、そんなヤバイですかね…」と言うと、ロン毛のおっさんは「おしっこ飲め!」と言い放ち、ギラギラした目で飲尿健康法を説いた。やれ玄米食だ、野菜だ、運動だ、おしっこだと、打ち上げの飲み会は健康談義に花咲いた。
そして僕はここぞとばかりに虐められた。
もう面倒くさいから、玄米におしっこかけて「健康茶漬け」とか称してサラッと食ってやろうかと思った。涙ぐんだ。


というわけで、テーマは「健康」だ。
しかし、ただ健康志向になるのはつまらない。
「健全な肉体に、健全な魂が宿る」
これがいけない。

「健全な肉体で、如何に不健全に生きるか」
目指すのはそこだ。


テーマの実践のため、着実に僕は動いている。
友人を呼び出し、深夜のラーメン屋で「規則正しい生活」について講義し、わざとらしく味噌ラーメンに野菜をトッピングしたりしているのだ。
「健康」について書いているのに、いまのBGMは森田童子だ。「君と落ちてしまおうか」とか「机の上の高橋和巳が怒った顔」とかいうフレーズが飛び込んできて、思わずウィスキーに手が伸びそうになる。油断すると暗いメロディーに心がもってかれて「どうして生きていいのか分らない」「発狂」なんてキーボードを打ち込んでいる。これはキツイ。
どうだ、僕は戦っているのだ。
必至の思いで「健康」になろうとしているのだ。
「駄目になった僕を見て、君はびっくりしたかい」と昔の彼女にいじけた自分を見せたい衝動を抑えながら、「お腹の凹んだ僕を見て、君はびっくりしたかい」と言い放つために毎日腹筋をしようかと思っているのだ。いまのところ思っているだけだ。


まずは健康な肉体を手に入れることだ。
程良く筋肉のついた肉体はしなやかに機能し、午前中の新鮮な太陽を享受するだろう。
栄養と酸素の行き渡った脳みそは正確かつ高速に回転し、レトリックは冴え渡り、抽象的思考は宇宙的次元まで掌握するはずだ。
あぁ、健全な肉体。
長らくそんな状態になっていない。いつもどこかに障害が。というか、そんな状態になったことがあったのか。
とにかく、健全な肉体を手に入れるのだ。

健全な肉体を手に入れた、そのときに出る言葉。それは「生きるって素晴しい」などと、ポジティブな「健全」なものになることが予想される。
しかし、それではいけない。全くもっていけない。当たり前でつまらない。スポーツマンシップなぞ糞喰らえなんだよ!
ここが勝負どころだ。
爽やかな陽光の下、小鳥のさえずりを聞きながら、僕は話し始める。明朗快活に身振り手振りを交え、雄弁に語る。
「人生は下らない」と。
そしたらな、勝ちなんだよ。僕の中ではな!

規則正しい健全な生活は、誰しもが持つ心の闇に蓋をする。
蓋の上で人は曖昧に人生を肯定する。
時々、その蓋を取っ払ってやりたいと思う。どいつもこいつも、底のないマンホールに落ちてしまえばいい。
では、僕はどうだ?
蓋を少し開けて見た途端に怖くなる。片足を突っ込んだだけで偉そうな顔をしてみる。情けない。
どちらにしろ、不誠実だ。

深い暗闇に潜って、そして戻ってくる。その為には筋力がいるのだ。
気に食わない奴らを、暗い穴に突き落とす。身近な友人が穴の奥で膝を抱えていたら、腕を引っ張って連れ戻したい。恋人が「潜りたい」と言うのなら、ガイドをしてやろう。
矛盾するこれらの衝動、どれも体力がいる。
健全な肉体は、不健全な魂の追求に使われるべきなのだ。それが人生に誠実だ。


「良い健康食レストランがあるんだ」と女の子をデートに誘い、無理のないダイエットをアドバイスし、ヨガの呼吸法を教えると部屋に連れ込み、有機農法の野菜を使ったエゲツナーイすけべ行為に及ぶような、そんな男に、僕はなりたい。いや、本当はなりたくないけど。まぁ、なってみたい気もする。
矛盾だ。この矛盾した健康志向こそが「誠実さ」なのだぜ。

詩人を廃業した晩年のランボーは「あんなものは水割りですよ」と自分の詩を否定した。それを読んで「よし、俺は水割りなんて飲むまい」と何故か誓った十五の夏。
自分はいつかドラックに溺れるに違いない。そして、カートコバーンのように死ぬ。ヤク中の心細い静脈に刺される、震える注射針がロックンロールだ、文学だ。あーカッコいい。
そんな事を、半ば本気で考えていたあの頃。
憎むべきは「健全さ」だった。やけっぱちの生活を、目には暗い光を。

しかし、いまとなってはそんな恥ずかしいことは、滅多に口にしなくなった。せいぜいアルコールが忘れられた憧れを思い出させるだけである。
自殺が、ある種のドラマ性を帯びるような年齢も過ぎようとしている。
そもそも、僕に死ぬ気はない。
何の生産性も持たないヨタ話。昼下がりに喫茶店で女の子と飲む珈琲。痴話喧嘩で溶けるプリン。それらで構成される、バカバカしく下らない人生を愛してしまっているのだ。
弱ってゆく身体は怠惰な必然であって、思惟的に選んだものではない。

ジャックケルアックが、ジムモリスンが、太宰が安吾が僕を軽蔑するだろう。中島らもは優しそうだから「ええんちゃう」と言いそうだけど。
そして、何よりあの頃の僕は「お前なんかになりたくない」と僕に言うだろう。

責任を取らなくてはならない。
その責任の取り方の一環として、矛盾した健康志向があるのだ。


健康ドリンクで割った焼酎で死ぬほど悪酔いする。
「生きる意味も価値も分らない」と言いながら、会員制のジムに通う。
ガンガンにドアーズをかけながら、錠剤をほうばる。もちろんビタミン剤だ。
無神論者として生きた後、盛大な葬式で天国へ。
足腰立たないくらいにベロベロなのに喧嘩になるとパンチは正確だ。
「明日、一緒に涅槃へ」と訳あり女と結託しながら野菜ジュースを買う。

矛盾は、大きく分りやすい方が良い。誠実だ。


とりあえず、もうこんな時間だけれど、明日は午前中から自転車漕いで爽やかな汗をかきつつ「例えば僕が死んだら…」というシュミュレートをしたいと思う。


ぱぱい。